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あなたはどれだけ知ってる?藤堂高虎(とうどうたかとら) vol.6

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三重県熊野市

■今回は、藤堂高虎の人物像を紹介します。
高虎は、弘治2年(1556)に近江国藤堂村(現在の滋賀県甲良町)で生まれました。幼い頃から体が大きく、7歳の時には、6歳年上の兄を上回る立派な体格だったといわれています。大人になった高虎の身長は190cm、体重も100kgを超え、戦国時代の武士として生き抜くための恵まれた体つきになっていました。
しかし、困ったことに、当時の日本には、現代のサラブレッドのような大きな馬はなく、在来馬である小さな馬しかいませんでした。大男の高虎が乗りこなせる馬は、なかなか見つからなかったそうです。
10代の頃の高虎は、短気な性格が災いし、仕えていた家を飛び出し、諸国放浪の身となりました。三河国吉田(愛知県豊橋市)でのこと、腹を空かせた高虎は、餅屋に入り、店の餅を全部平らげてしまいました。お金を持っていなかった高虎でしたが、自分の身の上を正直に店主に話すと、店主は怒るどころか旅の費用まで用立ててくれました。店主の温かさを胸に刻んだ高虎は、大名となった時、この餅屋に凱旋しました。その後の参勤交代※(1)の際は、藤堂家歴代の藩主が必ずこの餅屋に立ち寄ったそうです。戦場には似つかわしくない藤堂家の旗印「丸餅三つ」は、餅屋の主人の恩を忘れず、日々精進することの誓いの表れでした。
理想の主君を探していた高虎は、21歳の時に羽柴秀吉(はしばひでよし)※(2)の弟・秀長と出会い、家臣となりました。秀長は、「この人なくして秀吉の出世はなかった」といわれるほどの名補佐役でした。秀長の人柄に触れ、一生仕える決心をした高虎は、戦場で活躍し、秀長から高く評価されました。
十数年の間、良好な主従関係を築いてきた秀長と高虎でしたが、秀長が51歳で病死すると、高虎の運命も徐々に変わってきました。高虎は、秀長の跡取りである14歳の秀保の後見人となりました。しかし、その秀保も3年後に亡くなってしまいました。主人を相次いで失った高虎は、武士の身分を捨てて高野山(和歌山県)に出家(しゅっけ)※(3)してしまいました。それは、高虎が40歳になる前のことでした。

※(1)参勤交代:江戸時代、諸大名が一年毎に江戸に詰めたこと
※(2)羽柴秀吉:後の豊臣秀吉
※(3)出家:これまでの生活を捨てて、仏僧になること

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