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あなたはどれだけ知ってる?藤堂高虎(とうどうたかとら)vol.3

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三重県熊野市

■今回は、江戸城について取り上げます。
現在の皇居は、かつての徳川将軍家の居城・江戸城でした。
江戸城は、長禄元年(1457)に名将・太田道灌が築城し、その後、戦国大名・北条氏の支城となりました。徳川家康が、豊臣秀吉の命令で江戸入城した年は天正18年(1590)です。当時、台地の上にポツンとたたずむ築130年以上の城を見て、家康の家臣たちは「いかにも貧相」と嘆いたといわれています。
そんな江戸城が威風を示し始めるのが関ケ原の合戦の後でした。慶長8年(1603)、家康は天下普請により、江戸城の整備に着手しました。
征夷大将軍の宣下を受けた家康でしたが、その当時は、まだ豊臣家の威光は絶大であり、それに対抗するには、江戸城の強靭化が必須といえました。家康が、その重要任務となる江戸城の縄張り(設計)に白羽の矢を立てた人物こそが、藤堂高虎でした。
高虎は、将軍の居所である本丸をはじめ、二の丸、三の丸、西の丸や外濠、水路、町割りなど、築城と都市計画を立案し、家康とともに、実戦を想定した強固な要塞・江戸城の絵図を作り上げました。
天下普請による大改修を終えた江戸城は、その後、拡張を繰り返し、周囲が約16kmで日本最大の面積を持つ城郭となり、東京には、今なお、数多くの遺構や地名が残っています。
当初、高虎は「天下の城なのだから、縄張りは軍法学者に命じてくれ」と、家康の要請を再三辞退していましたが、高虎の豊富な築城経験を高く評価していた家康の説得で、天下普請の大仕事を手掛けることになったのです。
高虎の伝記をまとめた『高山公実録』では、高虎が家康に懇々と説得される様子を次のように記しています。
【よく覚えたる其方のごとく成老功の者のわざなり、辞退すべからず】
高虎が、いかに家康から信頼を寄せられていたかがうかがえる記述です。

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