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文化財めぐり(443)

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京都府亀岡市

◆戦国亀岡の様相(4)-本梅盆地-
戦国時代の亀岡を考えるとき、本梅盆地の歴史は重要です。この地域は、旧篠山街道や摂丹街道が通り、丹波国の奥郡や摂津国とつながる交通の要衝に位置していました。
中央の権門はここを私有地化し、宮川や東本梅を含む一帯に野口荘(ののぐちのしょう)、西加舎・東加舎周辺に賀舎荘(かやのしょう)、井手~畑野町千ケ畑に至るエリアに上村荘(かみむらのしょう)といった荘園が置かれました。また、半国山の北麓には金輪寺、南麓には苔谷千軒寺、金輪寺と旧篠山街道を挟んだ北側には楽音寺といった「山の寺」が伽藍を構え、それぞれ山麓には塔頭が築かれていたと考えられます。
このように本梅盆地は、中世までに経済・文化が栄えた地域でした。そのため戦国時代には領主権力がここに目を付け、城郭を構えて自らの拠点としていきました。
中でも波多野氏は数掛山城(現在の本梅町)を構え、ここが波多野氏と内藤氏による戦争の舞台となりました。
天文二二(一五五三)年におきた戦争では、ここで守護代内藤国貞が討死し、三好・松永軍が敗走しました。この戦禍により天王寺(現桂林寺)の観音堂が焼失し、馬頭観音が住民の手で避難されました。また戦没者の供養塔が同寺の境内地に築かれ、今もその戦禍を伝えています。

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