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文化財めぐり(444)

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京都府亀岡市

◆亀山と保津川水運
亀岡市域の中心地は時代と共に変遷してきました。奈良時代には保津川を挟む地域(池尻か千代川)に国府があり、川東地域に国分寺と国分尼寺、丹波国一宮がありました。平安~鎌倉時代には川東地域に加えて宮前町や別院地域に優れた仏教文化が栄えました。こうした文化・経済の発展を背景に室町時代には神前北山城(八木城)に守護所が置かれ、戦国期の領主達は本梅盆地や別院地域等に巨大な城郭を構えました。
これに対し、織田信長の家臣である明智光秀が注目したのが亀山の地でした。亀山の地名は、天正五年(一五七七)正月晦日付の明智光秀書状(大東急文庫所蔵)が初見であり、それまでは「八田庄(やたのしょう)」「八田」や「荒塚」の地名が確認されるのみです。光秀が旧来の荘園制とは異なる地域呼称として「亀山」を創出した可能性が高いといえます。
光秀が亀山に注目した理由は、丹後道や旧篠山街道、摂丹街道などの陸上交通に加えて保津川水運が交差する地であったためと思われます。特に、保津川水運とこの水運を利用した木材の流通を掌握しようという姿勢は、織田信長期以降に顕著で、丹波木材の生産・流通のあり方と亀山選地の問題は深く関係しているように思われます。

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