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小城市立歴史資料館・中林梧竹記念館だより

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佐賀県小城市

■歴史資料館テーマ展「高田保馬(たかたやすま)博士の遺品展2」を開催中です
高田保馬博士は三日月町出身で歌人であり、社会学・経済学の分野で大きな功績のある人物です。博士の遺品、資料の展示を行っています。
期間:~5月12日(日)
場所:歴史資料館 常設展示室
入場料:無料

■企画展「獄からの24通ー小城隊小隊長がみた佐賀の乱ー」を開催中です
明治維新後、佐賀の不平士族が起こしたとされる佐賀の乱(佐賀戦争)では、旧小城藩士族も参戦し、明治政府と交戦するに至りました。
終息後、小城隊小隊長をつとめた薬王寺寛生は懲役3年の刑に処せられました。獄中から家族に宛てた書簡24通などを紹介します。
期間:~5月12日(日)
場所:歴史資料館 企画展示室
入場料:無料

■令和6年度古文書講座「古文書からみる肥前千葉氏」の受講生募集
今年は、元寇から750年に当たります。蒙古襲来を契機に小城に移り住んだ千葉氏。小城のまちづくりに影響を与えた肥前千葉氏に関する文書を読んでみましょう。
日時:毎月第4土曜日 14時~
場所:歴史資料館 研修室
資料代:1,000円
募集期限:4月19日(金)

■おぎの歴史探検隊
○三間寺村は晴気の内だった
広報『さくら』3月号の「鎌倉時代の禅僧たち」の話で小松山と円通寺のつながりが読み取れますが、元寇の文永の役(1274年)に際し千葉頼胤(ちばよりたね)が晴気の荘に居住し国難に当たったと小城町史にあります。
頼胤は文永11(1274)年10月、戦闘で傷を負い翌、建治元(1275)年8月、小城の地で死去したとあります。当時の千葉氏の拠点を「小城の城」「晴気城」などと書かれていますが、どこを指しているのか。
晴気といえば現在では晴気川沿いの谷あいを考えますが、頼胤、宗胤(むねたね)、胤貞(たねさだ)の動向を考えると、そこに限定できないことが考えられます。
小城郡誌(1934年)によると、三間寺村は晴気村に属し、明治7(1874)年に松尾村に編入されたとあります。
頼胤が居住した晴気荘、死亡した小城、宗胤が帰依した円通寺、胤貞が千葉城の築城や松尾山光勝寺の創建を行ったときの拠点、それらを考え合わせると、ここでいわれる晴気、小城とは三間寺村、中でも円通寺の役割が大きかったといえるでしょう。
宗胤の時代は弘安の役があり、弘安8(1285)年、鎮西御家人に「所用があっても鎌倉に参向すること」を禁じられ関東との往来はできなかったでしょう。宗胤は永仁3(1295)年、30歳で亡くなり、円通寺参道大門に宗胤夫妻の墓といわれる碑があります。(終)
小城郷土史研究会/著

開館時間:9時~17時
休館日:毎週月曜日・祝日

問合せ・申込み:歴史資料館 文化課(桜城館2階)〔担当:下川・永田〕
【電話】71・1132
小城市ホームページから「梧竹・歴史資料館・文化財」検索

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