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とす新風土記〜「鳥栖市誌」を読む〜第108回

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佐賀県鳥栖市

■吉野ヶ里遺跡の時代の鳥栖(2)
吉野ヶ里遺跡で弥生時代後期の石棺墓(せっかんぼ)の調査が連日話題となりましたが、この時代の鳥栖地域ではどのような墓が見つかっているのでしょうか。
この時代、鳥栖地域にあったクニの中心は藤木遺跡(藤木町)ですが、このムラが衰退して新たな拠点集落が現在の蔵上から養父町周辺に誕生する直前の時期の墓が、藤木遺跡から見つかっています。
この墓は人がすっぽり横たわれるくらいの穴を掘り、石のふたを並べたもの(石蓋土壙墓(せきがいどこうぼ))で、規模は長さ1・9m、幅50cm、深さ約30cmです。蓋石は二枚だけ残っていましたが、もとは五枚以上だったとみられます。墓の周辺はその後の時代に大きく改変されており、当時の地面は墓が検出された面よりも1m以上は高かったとみられることから、もとは3~4m四方の竪穴(たてあな)の内部に遺体を収める穴を設ける構造だったと考えられます。
墓の中には遺体は残っていませんでしたが、遺体の頭の位置に当時入手困難な貴重品である朱(辰砂(しんしゃ)…水銀朱)が検出されました。埋葬時に被葬者の顔面に塗られたとみられます。そして左肩の位置から中国製の青銅鏡(直径13・2cm)が2つに割って重ねた状態でみつかりました。なぜ貴重な舶来の鏡をこのような状態にして副葬したのでしょうか。
この時代、中国からもたらされた鏡は権威や威厳を示す持ち物あるいは呪術的な性格の強いものでした。被葬者は、鉄製の武器類などが副葬されていないなどの理由から女性だと考えられますが、おそらくは彼女が所持して常に霊力を吹き込んでいた鏡を、2つに割って副葬することで彼女が持つと信じられていた霊力を封じ込める意図があったのかもしれません。(鳥栖市誌第2巻第2編第3章第2節より)

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