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自治体の皆さまへ

特集 今日の天気は笑顔ときどき涙でしょう(1)

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兵庫県多可町

◆再会
「こんにちは、お久しぶりです。」
子育てふれあいセンターの部屋のドアを開けると、奥嶋愛さんがにっこりと微笑みます。
この日は、愛さんが立ち上げたボランタリーサークル「れもんの木」の活動日。
「今度、献血の会場に持っていくメッセージをみんなで書いてるんです。」
れもんをかたどった画用紙に、ありがとうの文字が並びます。
「琉生(るい)がたくさんお世話になったから、献血をしてくださる人たちに感謝を伝えたくて。」
愛さんの次男・琉生くんは、3歳になる直前、「急性骨髄性白血病」を発症。1年2か月の闘病の末、4歳1か月でお空へと旅立ちました。

◆突然の闘病生活
令和3年7月6日。
夕方、琉生くんの意識がもうろうとし始め、吐血。救急車で近くの総合病院へ搬送されました。
CT、血液検査の結果、脳出血が見られ、白血球の数値が異常に高いため、そのまま県立こども病院へと移りました。
「3週間くらい微熱が続いていて、病院もいくつかまわったけど、風邪だろう、と言われていて。救急車で搬送されたときは何が何だかわからず、大混乱でした。」
子ども病院へ運ばれたときには、脳出血がかなり進んだ状態で、緊急手術が行われました。
とにかく命を助けて。家族は祈り続けました。手術が終わり、いったん帰宅した直後、病院からすぐに来て欲しいと電話が。奥嶋さん夫婦は、必死で車を走らせました。
「気が動転して、泣いて泣いて、一生分くらい泣いて。どんなにしんどかったんだろう。子どもが死にそうになっていたのに、なんでわからなかったんだろうと、申し訳なくて後悔ばかりでした。」
病院について、医師から告げられたのは、「急性骨髄性白血病」という病名でした。
「年間180人ほどが発症している病気で、多発性脳出血を併発している例は、ほとんど経験がないと言われて。今までテレビの中の世界と思っていたのに、なんで琉生なん…と途方に暮れました。」
小さな体に、ものすごい数の点滴。
「びっくりするくらいの数。本当に怖かった。生きた心地がしなかった。」

◆チャイケモとの出会い
琉生くんの容体は少しずつ安定し、意識が戻りました。
「意識が戻っても、記憶や言語が戻るのかはわからない、と言われていたけど、記憶が戻ってくれて。本当に嬉しかったです。」
一般病棟に移り、抗がん剤治療を開始。辛い治療に、最初の2〜3週間は、ずっと泣き続ける日々でした。
「治療を続ける中で、しゃべれるようになって、日に日に回復したんですけど、免疫力がゼロなので、カビやほこり、口の中に普通にいる菌にも感染してしまう。点滴、輸血、抗生剤、解熱剤、とにかく管だらけ。それでも琉生は早く遊びたい!て言うんです。遊べるようにがんばろうねって、励ましました。」
抗がん剤治療をして、容体が安定したら一時退院を繰り返す日々でした。
7月から3か月間休職していた父・健太郎さんが10月から仕事復帰し、平日は愛さんが付き添い、休日は健太郎さんが交代する生活になりました。
「病院には泊まれない。でも毎日通うのは大変、と思っていたときに、同じ病棟のお母さんから、「チャイルドケモハウス(以下、「チャイケモ」)を教えてもらいました。」
難病と闘う子どもとその家族を支援するための施設「チャイケモ」が、奥嶋さん家族にとっての第2の家となりました。
「チャイケモは、わが家のように過ごせる場所。普段は病院だけど、一時退院のときなどに、琉生も利用していて、大好きな場所でした。」
闘病生活で普通の生活ができない家族のために、できるだけ気を遣わずに過ごしてほしい。そんなスタッフに支えられ、花火やハロウィンなど、チャイケモでたくさんの思い出を作りました。
「辛いけど、病気にならなかったら一生知らなかった知識が増え、新しい繋がりができて、当たり前の生活のありがたさを身に染みて感じました。」

◆再発、移植
令和4年1月、再発。
年末の一時退院の楽しさから一転。医師からは生存率20%と言われ、移植のためにドナー探しを始めました。
「どーんと落とされた感じでした。でも、琉生はお兄ちゃんとテレビ電話をして大笑いしたり、笑顔で過ごしてくれました。」
検査の結果、健太郎さんがドナーになることになり、4月に造血管細胞移植が行われました。
「移植の前には、外泊許可をもらい、チャイケモで福祉カメラマンの方に七五三の家族写真を撮ってもらったり、家でいちご狩りをしたり、子育てふれあいセンターに遊びに行ったり、たくさんの思い出を作りました。」

◆もうがんばらなくていいよ
移植から2か月後、再再発。
「先生から、厳しすぎる話があり、またあのしんどい治療をするのか、と涙が止まらなくなりました。」
もう治療しないという選択肢もある。
医師の言葉に、「そんなこと絶対にありえない。」と、治療を続けました。
令和4年9月6日。
発症から1年2か月、琉生くんはお空へと旅立ちました、
呼吸不全に陥り、人工呼吸器挿管、気管切開、人工心肺。
「もうがんばらなくていい。楽にしてあげたいと思いました。」
コロナ禍で面会が限られている中、家族が駆けつけるまで、琉生くんはその小さな命を必死で繋ぎました。
よくがんばったね。

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