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【特集】今日知る郷土史(1)

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北海道清水町

―Piece Of History―
自分が生まれ育った土地のことを、みなさんはどのくらい知っていますか?
ここ、清水町というまちには、いったいどんな歴史があるのでしょうか?
意外と知らない郷土史の断片(カケラ)を今日たどっていきましょう。

■旧石器時代・縄文時代の土器や石器類が発掘されていた!
◇約2万年前から清水の地で人類が生活していた。
過去に実施された清水町内での発掘調査によって、旧石器時代・縄文時代の土器や石器類などが発掘されました。一番古い物は後期旧石器時代の石器で、おおよそ2万年前から清水の地で人類が生活していたことがうかがえます。
発掘調査では、特に縄文時代の土器や石器類が多数出土しました。その特徴から、石で作ったナイフなどで獲物を解体したり、土器を利用して食料を調理・保存したりと、縄文時代に清水の地で生きた人々の生活スタイルが浮かび上がりました。

■北海道の名付け親松浦武四郎が宿泊していた。
江戸時代末期、蝦夷地(現北海道)に渡り、アイヌ民族の文化や生活実態を記録した人がいました。その人物が、後に北海道の名付け親となる松浦武四郎です。
安政5年(1858年)に武四郎はニトマフ(現人舞)を訪れ、当時集落を構成していたアイヌのアラユク一族から歓迎を受けました。武四郎は、その様子を十勝日誌(武四郎が幕府に提出した報告書)に記録しています。そして、武四郎が歓迎されたその場所は、「松浦武四郎宿泊の地」として町内に標(しるし)が残されています。

■十勝開墾合資会社の歩みは苦難の連続だった
渋沢栄一が携わった十勝開墾合資会社は明治31年(1898年)に設立し、熊牛に農場事務所を開設しました。同社は小作移民を募集し、石川県や福井県出身の26戸99人が熊牛の開拓に挑みますが、その歩みは苦難の連続でした。
十勝内陸部の交通が不便で利益よりも物資の運送料が上回る状況が続き、未開の地に定着する小作人も少ない状態でした。それでも諦めずに出資を続け、再建計画を重ねたのが渋沢栄一らです。厳しい経営状況の中、明治40年(1907年)に鉄道が開通する転機が訪れ、初めて収益を挙げることができました。
その3年後には吉田嘉市が農場長に着任して農場改革を進め、小作人の規律や生活環境が整えられました。その後も発展を続けた同社は、大正5年(1916年)に株式会社へ移行しました。

■清水”の名前の由来は、明治32年に開設された“ペケレベツ駅逓(えきてい)”にあった。
明治21年(1888年)の北海道では、交通路を確保するために主要道路の一定区間ごとに「駅逓(えきてい)所」が設けられ、清水の地にも「ペケレベツ駅逓所」が明治32年(1899年)に設置されました。この時、ペケレベツ駅逓所を運営する取扱人として、村山和十郎(山形県出身・現新得町開拓の祖)が任命されました。
和十郎は、明治34年(1901年)に「ペケレベツ駅逓」を呼びやすいように「清水駅逓」に改名しました。改名に伴い、駅逓があった旧市街は清水市街と呼ばれ、清水の地名が定着していったようです。ペケレベツは、アイヌ語で清き流れという意味を指すことから、和十郎は清水と訳したとされています。
※駅逓所…駅舎と人馬を備え、旅人の宿泊や運送の役割を担った施設。
・今も駅逓所跡が清水町発祥の地として存在する!

■酪農が発展するきっかけとなった塩野谷牧場。
清水町の酪農の歴史は、塩野谷辰造が開いた塩野谷牧場から始まりました。辰造は埼玉県に生まれ、最初は上川郡旭川町(現旭川市)で酒造業を営んでいました。
辰造は、明治32年(1899年)に芽室村ホオネップ(現上羽帯)へ渡り、塩野谷牧場を開設。明治末には、上羽帯のほぼ全域を占める3,400haの大牧場を築き上げました。
明治45年(1912年)には、米国のウィスコンシン州立農科大学酪農科で学んでいた塩野谷平蔵(辰造の弟)が牧場に加わり、当時としては最先端の牧場経営が行われました。清水の地で最初に畜牛を導入したのは、塩野谷牧場だと言われています。

■寒冷地の畑作農業に多くの足跡を残したドイツ人農家フリードリッヒ・コッホ
十勝地方でビート栽培が始まった頃、道庁は農業先進国から農家を招き、寒冷地の畑作経営の改善と農業者の技術向上を目指しました。この時、清水の地に招かれたのが、ドイツの製糖会社でビート栽培技術者として腕を磨いていたフリードリッヒ・コッホでした。
大正12年(1923)年にコッホ一家は人舞村に入り、翌年春から下佐幌地区で農業経営にあたります。一年目は麦類、二年目は豆類、三年目は根菜類、四年目で一巡するという輪作形式と深耕による土地改良で、収量を増やしていきました。
こうした経営を見習う者が次第に多くなり、コッホは寒冷地の畑作農業に多くの足跡を残しました。当時彼らが暮らしていた住宅は、現在も下佐幌地区に残っています。

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