文字サイズ
自治体の皆さまへ

〔思いを繋いだ電気通信の拠点〕猿払村100年のあゆみ 第4回「電気通信ゆかりの地」

1/22

北海道猿払村

現在、浜猿払の海沿いにある「電気通信ゆかりの地」。そこには、かつて日本と樺太がケーブルでつながっていたという事実を伝える記念碑が建てられています。
その昔、この地にあった電話中継所は、第二次世界大戦終結まで北海道と旧樺太(現サハリン)を結ぶ中継基地として重要な役割を果たしていました。
(※詳しくは本紙をご覧ください。)

■樺太と北海道をつないだ大動脈
明治38年から日本の領土であった樺太。当時は約40万人の日本人が住んでいました。樺太と北海道、本州間を結ぶ電話の開通は、樺太島民の長年にわたる要望であり、国防や産業上、その他あらゆる面において必要とされていながら、様々な事情で実現されていませんでした。月日が経ち昭和8年7月、綿密な調査と度重なる協議により、念願であった海底ケーブルの設置が決まりました。
当初、ケーブルの陸揚げ予定地は、樺太大泊の隣村深見女麗(めれ)と、宗谷村峰岡でした。しかし、設置作業調査により、猿払村の海底はほとんどが砂地で、水深100m以内とケーブル設置には理想的なルートであったことや潮の流れなどの条件が良かったことから、女麗から約160km離れた猿払村浜猿払が中継所に選ばれました。
昭和9年9月に海底ケーブルが設置され、同年12月11日の午前10時30分に記念すべき樺太との電話による通話が行われ、翌年1月に北海道における最北端の基地として猿払電話中継所が開設されました。
東京~北海道~樺太間の電気通信は全てこのルートで行われていました。昭和18年頃には、設備の増設とともに建物も増築され、本土と樺太ををつなぐ唯一の中継所として重要な役割を担っていました。樺太の真岡郵便電信局の9人の乙女の悲劇もこのケーブルを通して最後の声が届けられました。

■時代の変化と必要性
昭和20年8月の第二次世界大戦の終戦とともに、樺太との通話が途絶えました。その後、無線電話、電話の急速な発展によって中継所の業務内容も変わり、稚内~札幌間にマイクロ回線が開通し、浜頓別町に電報電話局が開局してからは、まったく不必要な存在となってしまい、中継所にいた一部の業務に携わっていた職員もほかに移り、ついに昭和39年9月30日、30年の歴史を閉じて廃所となりました。

■電気通信の歴史を残す
昭和48年秋、当時の日本電信電話公社(現NTT)の総裁が視察で猿払村を訪れ、電話中継所とケーブル線の果たしてきた役割を聞いて感動し「ケーブル線を一般に公開し、歴史的に重要なものをいつまでも残しておくべき」とのことから、翌年の昭和49年、同社によって、同中継所のケーブル陸揚地の「電気通信ゆかりの地」の記念碑が建てられました。
また、平成18年には、猿払ライオンズクラブも記念碑横に「9人の乙女の霊を慰め、電気通信ゆかりの地にその功績を顕彰する」という石碑を建て、敷設した海底ケーブル5本を設置。その後、村も平成21年、この史実を多くの人々に知ってもらうため、記念碑をかさ上げして、周囲に化粧ブロックを敷きつめ、海底ケーブルを透明なケースで覆い、保存するなど整備しました。

◆真岡郵便電信局事件
昭和20年8月15日に終戦、それから5日後の昭和20年8月20日、ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとしました。その時、突如日本軍との間に戦いが始まり、この日の電話交換手である9人の乙女たちは窓越しにみる砲弾のさく裂、戦火と化した真岡の街、刻々と迫る身の危険、もうこれまでと決断し、死の交換台に向かい「皆さんこれが最後です。さようなら。さようなら。」との言葉を残し、夢多き尊い花の命を絶ち職に殉じました。
この樺太真岡郵便局の女性電話交換手の最後のメッセージを受信したのが、猿払電話中継所です。記念碑は電気通信の歴史を残すとともに、電話交換手たちへの鎮魂の意味が込められています。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU