文字サイズ
自治体の皆さまへ

〔激動の時代を生き抜いた鉄道〕猿払村100年のあゆみ 第5回「天北線のはじまりと廃線」

2/20

北海道猿払村

かつて日本国有鉄道(以下「国鉄」)が運営し、猿払村と各地を繋いでいた鉄道路線「天北線」。天北地域の交通の要として、多くの人々に愛されたこの鉄道は、ホタテ漁の豊漁と資源枯渇で揺れ動く猿払村と共に、激動の昭和時代を生き抜いたのでした。

■天北線のはじまり
天北線のはじまりは明治43年。オホーツク海側地域の交通の便の悪さを危惧した人々が「鉄道速成期成会」を結成し、鉄道路線の敷設陳情を行ったことでした。当時は道路整備が進んでおらず、冬場は悪天候や流氷によって船が出せないため、鉄路は貴重な移動手段だったのです。
国鉄は人々の切実な陳情を受け、明治45年に起工します。音威子府をはじまりとして、大正7年には浜頓別まで開通。浅茅野、鬼志別と次々進み、大正11年に音威子府~稚内間を結ぶ路線が完成します。時代の波に翻弄されながらも前へ進み続ける、天北線と猿払村の歴史が始まったのです。

■鉄道最盛期とその衰退
交通面に苦労していた天北地域に現れた鉄道は、猿払村を大きく盛り上げました。鉄道利用者や見送りの人々が行き交う商店街には飲食店等がいくつも立ち並び、昭和初期のホタテ豊漁と相まって、国鉄と猿払村は、足並みを揃えるように活気に満ちていきます。
しかし、その盛り上がりも束の間。自動車産業の発達に伴い需要が低下した鉄道業界では、地方での「国鉄離れ」が加速していきます。更には、国の方針で第二次世界大戦の終戦後に引き上げた兵士たちを大量雇用していたこともあり、莫大な人件費が国鉄の財政状況に負担を与えたのです。

■国鉄の経営合理化
昭和39年には、国鉄の経営は赤字転落となり、各駅の無人化や貨物の取り扱いを停止して諸費用を削減する「経営合理化」が行われます。その影響は天北線にも及び、小石駅と芦野駅は無人化、昭和55年には旭川鉄道管理局の総務部長らが来村し、鬼志別、浅茅野、猿払駅の一般駅からの格下げと貨物の取り扱い停止を要求。これに対し村は反対陳情を行い、村民一丸となっての「天北線合理化・廃止反対猿払村住民協議会」が発足します。反対を受けた旭川鉄道管理局は合理化を一旦見送るも、廃案には至らず、その後も村をあげての反対運動を行いますが、天北線の廃止を防ぐためには必要な措置であるとして、ついには合理化に同意します。
しかし、その後も国鉄の経営赤字は増え続け、最終的には25兆円にも及ぶ巨額の累積債務を抱えた国鉄は、鉄道業務を民営化し、債務を処理。業務を引き継いだJRは、過疎車両を廃止し、代替バスへの転換を目指す方針を打ち出します。天北線は廃止対象路線となり、約11年に渡って路線存続陳情を繰り返しますが、昭和63年、沿線市町村を代表した浜頓別町長によって、ついに天北線のバス転換が表明されました。

■天北線との別れ
存続の願いは届かず、平成元年4月30日、「天北線お別れ式」が鬼志別駅で行われました。廃線を惜しむ約300人もの村民が集まり、午前10時16分発の列車を、その姿が見えなくなるまで見送り続けたのでした。

◆廃線に反対する声
※昭和58年の広報さるふつに掲載された小学生の作文(一部抜粋)

私は、天北線をなくしたら困ると、思います。天北線がなくなったら、稚内や旅行に行けなくなります。車のある人は良いかもしれませんが、車がない人は、どうしたらいいのでしょうか。汽車が走らなければ、どこにもいけないのです。いくら赤字だからといって、そこに住んでいる人達の考えも聞かないで廃止にしないで、今まで通り残してほしいです。今の人たちは、たいてい自動車を持っています。中には、持っていない人も、いるんです。私の家は、自動車がないので、なおさらなくなるとこまります。どうか私達のお願いを聞いて、天北線を今まで通り走らせて下さい。どうか、お願いいたします。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU