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このまち大好き!芽室の歴史探訪

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北海道芽室町

■その100「上芽室小学校」(芽室町上芽室南三線十六番地)
芽室歴史探訪会 土岐一雄上
上芽室原野への最初の入地については諸説があるので、ここでは明治三十一(一八九八)年に徳島県人・松本忠太郎が芽室川流域に沿って土地貸付を出願、翌年に許可を得て松本農場を開いたことをもって始まりとする。
さて、同三十七(一九〇四)年九月、上芽室南二線十四番地に芦屋を仮校舎として、上芽室簡易教育所を開設した。
翌年には児童数が五十名となり、同四十一(一九〇八)年九月には上芽室尋常小学校に昇格した。更に、翌年には上芽室南三線四十四番地に新校舎を建て移転、児童数百二十二人の二学級編成となった。
やがて、大正時代になると、久山特別教授場や佐念頃教育所(現・御影小学校)の開設などにより、児童数や学級数が増減するという影響を受け続け、大正十(一九二一)年には、御影村の開村により芽室村から離れて御影村立上芽室尋常小学校となった。ところが、翌年には上芽室南三線百九十番地に新校舎を建て移転、これにより通学区域が変更され、御影へ行く児童や渋山から来る児童などの転出入が続いた。
次いで、昭和十(一九三五)年六月には、南三線十六番地に新校舎を建て移転した。
同三十一(一九五六)年十月、町村合併により清水町の区域となるが、同三十三年には清水町より分離、芽室町立上芽室小学校となった。やがて、芽室市街地に近い住民は芽室小学校への通学を希望し、同四十七(一九七二)年三月のPTA総会で芽室小学校への統合を決定したと町史には書かれている。
その後、同五十一(一九七六)年三月、同校は七十二年の校史に幕を閉じ、新設の芽室西小学校に統合された。閉校時の児童数は八名、教員数は四名であった。
なお、校舎の取壊しの時期は不明だが、地域福祉館として利用されていた体育館は平成二十五(二〇一三)年八月に解体された。

▽引用・参考文献
「閉校記念誌」芽室町立上芽室小学校昭和五十一年三月二十一日発行
「芽室町百年史」芽室町役場平成十二年発行

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