東総広域農道と県道16号線が交わり、借当川に架かる橋は「境橋」と呼ばれています。
昨年、「椿の海」の歴史にまつわるイベントや栗山川、借当川水運についての講演会があり、地域の歴史を再認識することができました。
借当川は1760(宝暦10)年にそれまでの「境川」から名称を変えたとされます。それまでは流域の村々の用排水をめぐり水論が絶えなかったと伝わります。
椿の海水運により、後の龍尾寺につながるとされる八日市場大寺廃寺跡やふれあいパーク八日市場から広域農道を挟んで対面する関向古墳跡など古代の遺跡が所在しました。
飛鳥・奈良時代以来、東北地方の蝦夷(えぞ)征伐事業の海路で畿内から陸奥に侵攻する中継地点としての機能を匝瑳郡が果たしたとされます。鎮守将軍として征夷事業を担った物部(もののべ)匝瑳氏が本拠を匝瑳郡から京都に移した840年代以降、匝瑳郡はこの川を挟んで大浦側の「匝瑳南条荘」と飯高側の「匝瑳北条荘」に分かれたのでしょう。
大寺・熊野神社や古代末期の1180(治承4)年に活動が知られる藤原親政の匝瑳北条内山館なども境川水運を利用したことでしょう。
その後、匝瑳北条荘域、後の飯高村、豊和村の村々は中世を経て、江戸時代に入って香取郡域に含まれたことが飯高寺や妙福寺の記録から知られます。境川から近距離の飯高神社や飯高檀林跡・飯高寺の開創にもこの水運の利便性があったと考えられます。
この2カ村と吉田村は1948(昭和23)年に匝瑳郡に編入し、昭和の大合併で旧八日市場市となりました。
椿の海、栗山川、借当川の水運がこの地域の歴史に古代から大きな影響をもたらしたことを再認識しました。
「境橋」と書かれた小さなプレートが「境川水運」の歴史を、今に伝えているように感じました。
(市文化財審議会委員・依知川雅一)
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