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歴史のしずく

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千葉県白井市

■近世・近代の葬礼
平塚地区の国指定重要文化財滝田家住宅に残る葬礼の際に受け取った香典帳や、費用を記した出方帳から、近世・近代の葬礼を紹介します。
文化2(1805)年に滝田家当主が亡くなった際の葬礼は9両1分掛かりました。酒代として1両支払った以外は、寺院への支払いが大半を占めます。支払先は菩提寺である延命寺だけでなく、延命寺と同じ真言宗の布瀬・名内・片山などの寺院や、手賀村の興福院でした。当時、地域の同じ宗派の寺院は末寺(まつじ)として本寺(ほんじ)に属していました。延命寺は興福院を本寺としており、葬礼では本寺と平塚周辺の末寺の僧侶が参列する形で大々的に行われたようです。
安政4(1857)年の隠居者の葬礼では9両2朱を支出します。複数の寺院へお布施を渡しますが、費用は抑えられ、代わりに酒代が3両と増えます。延命寺からは曼荼羅2幅を借ります。その他、早桶(はやおけ)(棺桶(かんおけ)。当時は座棺。)や棺桶を運ぶ輿(こし)や早道具(葬具)、呉服を購入しました。葬礼の食材の記載もあり、漬物用の白ウリや豆腐、油揚210枚を購入したほか、味噌汁の具(しんのみ)としてナスとウリを八百屋から購入します。初七日や四十九日用にカボチャやゴボウも購入します。参列者は香典として金銭のほか線香・ろうそくを渡し、併せて悔米(赤飯含む)を持ち寄りました。
同じ年に亡くなった隠居者の妻の葬礼は金3分と簡素なものでした。この葬礼以降、滝田家では菩提寺の延命寺ともう1寺の計2寺への支払いのみとなり、周辺寺院の僧侶を呼ぶのを止めたようです。
元治2(1865)年の当主の葬礼では酒代が4両3分、慶應3(1867)年の妻の葬礼では8両2分に増えます。明治35(1902)年の当主の妻の葬礼では、香典として12円79を集めます。持ち寄られる悔米は1人1~2升と近世と変わりません。寺院へのお布施などは61銭で、支出は食材や酒などの飲食代が中心です。参列者からは上酒1樽が寄贈され、葬礼での飲食が時代が下るにつれ重視されていった状況が伺えます。
平成15~17年に実施した古老からの聞き取り調査では、葬礼の料理はご馳走だったそうで、豆腐や油揚を大量に使い、味噌汁、キンピラゴボウ、煮物、天ぷらを出したと記録されており、こうした古文書の内容を裏付けます。

問合せ:生涯学習課
【電話】492-1123

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