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歴史資料館 連載三七七

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千葉県鋸南町

■関東大震災
大正十二年(一九二三)九月一日、その日は朝から雨模様で、十時過ぎから陽が差してきました。とくに変わった天気でもありませんでしたが、ただやけに蒸し暑い日が二三日続いていたと言います。
午前十一時五十八分、突如、関東を大地震が襲いました。相模湾北西沖八十キロを震源とするマグニチュード7.9の地震、関東大震災です。
鋸南町ではどのような被災だったのでしょう。当時はまだ保田町、勝山町、佐久間村に分かれていました。一番被害が大きかったのは保田町です。特に保田の中心から海側の、保田中央、本郷浜、大帷子(おおかたびら)地区で、家屋の全壊が最も多かった地区です。記録では、保田町の家屋全壊二六四、半壊六四を数えました。
人的被害では、保田町の死者六一名、負傷者一三六名(内重傷者六〇名)、勝山町の死者三五名、負傷者四一名、佐久間村の死者四名、負傷者一名でした。
やがて人々は山手に避難してきました。津波を恐れてのことです。当時保田小学校裏山に靉日荘(あいじつそう)を建てて暮らしていた歌人の石原純(いしわらじゅん)と原阿佐緒(はらあさお)もこの地震にあいました。靉日荘には続々と避難者が集まったそうです。石原はこの時の震災の様子を手記に残しています。
幸いにも津波はありませんでした。もし関東大震災で元禄地震クラスの大津波が来ていたら、被害はさらに甚大になっていたでしょう。
やがて各地区より在郷軍人会、消防団、青年団らの応援隊が集まり、圧死者の捜索や家屋の片付けが連日行われました。京浜地区から線路を歩いて避難して来る人もいました。それらの人々に休息させ、負傷者を治療するために保田の観音寺(かんのんじ)が救護所として開放されました。役場からは食料や牛乳が調達され、しのぐことができました。
この震災を忘れぬよう、観音寺には保田町青年団が建てた大震災記念碑があります。関東大震災から今年でちょうど百年目になります。

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