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香取遺産(vol.209)

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千葉県香取市

■明治時代、流れを変えた利根川
明治中頃まで物資の運搬の中心は主に舟による運搬であったため、河川の維持・改修は、内陸舟運路(ないりくしゅううんろ)維持のために川底の土砂を取り除く浚渫(しゅんせつ)などを行う低水工事(ていすいこうじ)が中心でした。しかし、明治25年鉄道敷設法により、全国に鉄道網を張り巡らせる計画が進むと、物資の運搬の中心は舟から鉄道へと変わり始めます。その頃、大きな洪水が全国各地で頻発したため、明治29年に河川法が制定され、舟運に必要な河川の浚渫工事から、水を早く安全に海へと流れさせ、洪水を防御する高水工事(こうすいこうじ)(河川の氾濫(はんらん)防止のために最高水位を計算して堤防の高さを決める工事)へと治水工事の方向性を大きく転換しました。これにより、流路の直線化と高い堤防が造られることになります。
利根川では、銚子の河口から烏川(からすがわ)合流付近(群馬県高崎市)まで約200kmの改修工事が明治33年から昭和5年まで3期に分けて行われ、それまでの流路を大きく変える大規模な工事となりました。
当時香取市付近の利根川の流路は大倉付近からそのまま東へ直線方向に流れ、外浪逆浦(そとなさかうら)で北浦と霞ヶ浦からの流れと合流していました。そこで第1期改修工事では、香取市の台地に沿うように南東方向に流れを変えて利根川として独立し、北浦と霞ヶ浦の水を合わせて常陸利根川としました。当時の堤防が一ノ分目新田付近で見ることができます。整然と水田が区画された中に斜めにやや湾曲しながら一段高い地形の様子が今でもはっきりと残っています。
第2期改修工事では、石納付近で大きく北方向に蛇行(だこう)していた流路を直線化しました。それにより本来は地続きであった地域が、利根川を挟んで南北に二分されてしまいました。
香取市は、水郷という風光明媚(ふうこうめいび)な自然美とは裏腹に水害の危険性を常にはらんでいました。地域に残された地形からもさまざまな歴史を知ることができます。

問合せ:生涯学習課
【電話】50-1224

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