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「文化の香りたかい町」を未来につなごう

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和歌山県上富田町

上富田町は、偉大なる文化人を多く輩出しています。それも不思議と明治から昭和にかけての時期に活躍されています。
たとえば、明治11年(1878)生まれの宇井縫蔵は有名な植物学者であり地方史の研究でも業績を残しています。出身は岩田村で、もとは滝浪縫蔵といい滝浪初右衛門の二男でした。宇井可道の娘の婿養子となって宇井縫蔵となりました。南方熊楠とは紀州の植物について絶えず連絡をとっていたとのことです。
明治21年(1888)に生まれた樫山嘉一は岡の出身で植物学者でした。南方熊楠を師と仰ぎ、植物だけでなく多彩な研究に取り組みました。八上神社の森で県内で初めて「ヤツシロラン」を発見したのが樫山嘉一だったということです。
稲田米花は明治23年(1890)生まれ、岩田出身の画家です。本名は登(みのる)、岩田高等小学校修了後、郷土の漢学者谷本三山に入門していますが、明治41年には海南市の南画家青木梅岳の門に入り本格的な南画の修行に励みます。雅号を米花と称したのは昭和3年以降で、それまでは梅嶂と名乗っていました。
昭和34年5月1日発行の広報「上とんだ」に「県下美術界の元老稲田米花氏訪問記」という記事で、「何と言っても米花さんの名を一躍有名ならしめたのは昭和4年の帝展(今の日展の前身)入選であった。これは那智の滝を描いた一大力作であって…」と紹介しています。
ただ、帝展の入選は昭和8年のことでした。この入選した「那智月夜見ノ滝之図」は那智青岸渡寺へ寄進されています。
岩中徳次郎も画家で、明治32年(1897)生まれの岩田出身です。抽象絵画で有名です。
幼少の頃は岩田で過ごし、大正6年(1917)に大阪府立天王寺師範学校を卒業、教員免許を取得し小学校や高等女学校等で教員をしながら活動していました。47歳になってゼロから出直すことを考え6年余り自給自足の生活を送ったということです。
抽象絵画に転じたのは、昭和27年(1952)55歳の時でした。
この地方に俳句の種を蒔いたといっても過言ではないのは出羽里石で岩田出身です。里石は本名寛一で、16歳頃に俳句を始めたそうです。出羽里石は田辺で造酢業を営んでいましたが、昭和14年(1939)40歳の頃に岩田に戻り父祖の業を継いで百姓を始めました。
百姓となりて悔いなし芋の月 里石
里石の俳句は、はじめ高浜虚子(1874~1959)に師事し「ホトトギス」に投稿しながら学びました。高浜虚子は「客観写生」、「花鳥諷詠」を大事にしていました。
その後、高野素十の俳誌「芹」の紀南支部を担当して素十との関係を深めていきます。その高野素十は昭和31年(1956)、里石57歳の頃初めて岩田にやってきました。
里石の蒔いた種を大事に育てていったのが、岡出身の射場秀太郎です。
漢詩で有名な髙橋藍川は明治39年(1906)生まれ、鮎川村加茂(現上富田町下鮎川)出身で、成道寺の住職でした。53歳になる昭和34年(1959)3月15日発行の町広報「上とんだ」に「詩誌刊行二十年髙橋藍川師訪問記」という記事で、「…近隣で説教師としての名をはせる一方…外に漢詩作家としての藍川という名は、むしろ遠く他府県で有名で、現代日本詩壇の巨頭として多くの門下生を擁し、一方の旗頭として覇を唱へているのである」と紹介しています。
平成9年3月8日(土)・9日(日)には、文化会館竣工記念事業として稲田米花・髙橋藍川回顧展が開催されています。(主催:上富田町文化協会・上富田町教育委員会)
まだまだ紹介すべき方々がおられるでしょうが、今回はこのあたりにしておきます。
いろいろな縁で上富田町に暮らす私たち。郷土の歴史や文化を学び、文化の香りたかい町を築いていきましょう。(大谷)

※町民憲章の一つに「生涯を通じて学び、視野を広め文化の香りたかい町をつくります」と定められています。

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