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わたしのまちの文化財 vol.190 岸小野地蔵寺の宝篋印塔(ほうきょういんとう)

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和歌山県紀の川市

今から約700年前、日本では、南朝(吉野)と北朝(京都)の2つの朝廷があり、50年余り内乱の時代、南北朝時代がありました。吉野に近い紀の川市では、南朝の勢力が強かったといわれています。
貴志川町岸小野の地蔵寺では、康應(こうおう)元年(1389)銘の砂岩製の宝篋印塔が残っています。宝篋印塔は、塔の名前の由来でもある「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経(いっさいにょらいしんひみつぜんしんしゃりほうきょういんだらにきょう)」を内部に納めており、礼拝をすれば「罪が消滅し、災害から免れ、死後は必ず極楽に生まれ変わる」といった功徳を得られることから造られたものです。
日本では平安時代に中国から伝わり、鎌倉時代以降になると、石造の宝篋印塔が多く造られるようになります。
宝篋印塔は、一般的に上から「相輪(そうりん)」、「笠」、「塔身」、「基礎」、「基壇」で構成され、笠の4隅には隅飾(すみかざ)りと呼ばれる突起があるのが特徴です。岸小野地蔵寺の宝篋印塔は、一番上の部位である相輪が欠けており、残存高167・9cmになります。笠の隅飾りは少し外に張り出し、南北朝時代の隅飾りの特徴を示しています。隅飾りは時代が新しくなるにつれて、外に大きく張り出していきます。
宝篋印塔の塔身の4面には梵(ぼん)字を刻み、基礎正面の右側には「逆修(ぎゃくしゅう)講一結講中」、左側には「康應元年己巳九月廿日」と刻まれています。「逆修」とは、生前に自らの死後の冥福を祈願することを意味しています。「講」、「一結」は集団を意味し、「康應」は北朝の年号であるため、銘文から、北朝側についた集団が造った石塔であることが考えられます。
岸小野地蔵寺の宝篋印塔は北朝の年号の銘でしたが、旧貴志川町内の古文書やほかの石造物では、南朝の年号も用いられています。
当時、この地域では、貴志荘の貴志氏と湯浅貴志氏といわれる、2つの勢力があったと言われています。同族の分裂や一族の生き残りのために、同族が別々の朝廷側につくこともあったと考えられますが、貴志氏が南朝側、湯浅貴志氏が北朝側についていたとされており、岸小野の宝篋印塔を造った集団は、湯浅貴志氏側の勢力ではないかと推定されます。
今、岸小野地蔵寺の宝篋印塔は、無縁仏の一群にひっそりと佇んでいますが、この宝篋印塔は銘文のとおり、南北朝時代の特徴をよく示しており、貴重なものとなっています。

問合せ:紀の川市文化財保護審議会
【電話】77-2511(生涯学習課内)

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