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行田歴史系譜356

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埼玉県行田市

■資料がかたる行田の歴史56
▽お寺の名前にみえる藩主の「ご先祖様」
文政6年(1823)の三方領知替により、桑名からやってきた松平下総守(しもうさのかみ)家(奥平松平家)が新たに忍を治めることになりました。この時、松平下総守家にゆかりのあるものが桑名から忍へともたらされましたが、その一つがお寺です。当時、松平下総守家は6つの菩提寺を持っており、江戸谷中の天眼寺(てんげんじ)と京都の天祥院を除いた4つのお寺は移封のたびに引っ越しをしていました。このうち、市内に現存するのは天祥寺(てんしょうじ)(埼玉)、桃林寺(とうりんじ)(城西)、大蔵寺(だいぞうじ)(駒形)の3つです。4つ目の龍源寺は大蔵寺の近くにありましたが、明治時代に廃寺となっています。いずれも、松平下総守家の祖とされる松平忠明(ただあきら)が郡山城(奈良県)に在城していた時代に創建されたと伝わります。
ところで、これらの寺名にはどのような由来があるのでしょうか。天祥寺は、松平忠明の法名である「天祥院」から名付けられたもので、藩祖である忠明を祀(まつ)るお寺です。桃林寺は、忠明の兄である松平家治(いえはる)の法名「桃林院」に由来します。家治は14歳の若さで亡くなっており、桃林寺はその供養のために建てられたお寺なのです。そして大蔵寺は、奥平貞能(さだよし)の法名「大蔵院」から名付けられました。奥平貞能は三河国作手(つくで)(愛知県新城(しんしろ)市)の戦国武将で、松平忠明の祖父にあたる人物です。天正元年(1573)に徳川家康から破格の条件をもちかけられ、これを承諾したことで奥平家は徳川家と強い結びつきを得ることになりました。条件の中には、貞能の長男信昌(のぶまさ)と家康の長女亀姫が婚姻を結ぶことも含まれており、二人の間に誕生したのが忠明です。藩祖の祖父であり、徳川家との結びつきを導いた貞能は、松平下総守家にとって大変重要なご先祖様であるといえるでしょう。大蔵寺には、江戸時代前半に描かれたとされる貞能の肖像画も伝来しています。
(郷土博物館 岡本夏実)

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