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不滅の福澤プロジェクト 記念対談(1)

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大分県中津市

伊藤 公平(慶應義塾長)×奥塚 正典(中津市長)

令和6年の一万円札の肖像交代を一つの機会と捉え、福澤諭吉の功績を改めて学び後世に伝える「不滅の福澤プロジェクト」の一環として、8月6日、小幡記念図書館で、慶應義塾の伊藤公平塾長と奥塚正典市長の対談が行われました。慶應義塾福澤研究センターの都倉武之准教授が司会を務め、「福澤諭吉の原点とこれから」をテーマに語り合いました。

■日本人の幸せのため
都倉准教授:中津市は「不滅の福澤プロジェクト」を進めています。慶應義塾でも、『学問のすゝめ』刊行150年に合わせて「ガクモンノススメ」プロジェクトが進行中です。今日は、中津市と慶應義塾にとっての福澤諭吉という原点と、これからについて考えていきたいと思います。まずお二人に、福澤諭吉にまつわるエピソードや思い出などを伺います。

奥塚市長:福澤先生と私の出会いは、小学校の時。福澤旧居に行って、暗い土蔵の中にあった先生の人形を見て、びっくりした思い出があります。小学校や中学校の校歌には「独立自尊」、高校の校歌には「福澤精神」という言葉も出てくるぐらい、先生は身近な存在でした。高校の卒業記念アルバム用に全体写真を撮るとき、みんなで話し合って、中津城公園にある「独立自尊碑」の前で撮ったのを思い出します。一万円札の肖像に採用されたときは、中津人としては本当にうれしかったですね。

伊藤塾長:慶應義塾幼稚舎の校歌の1番に「福澤の 大先生の お開きなさった 慶應義塾」という一節があり、「どうやらすごい先生がつくった学校にきたらしい」と感じたのを覚えています。成長するにつれて福澤諭吉のすごさが分かってきて、私の中では強迫観念に近い状態で、「世界に出なければいけない」という思いが大きくなっていきました。福澤は実際に欧米を見て、世界の一員として日本がやっていくにはどうしたらいいかを考えました。だからこそ「世界を見ないといけない」と説いています。米国の大学で学び、その後、慶應義塾の教員になりましたが、今も常に世界の中の自分の位置や、我々は何をしなければならないのかということを意識しています。都倉先生はいかがですか。

都倉准教授:私は千葉県松戸市のニュータウンで育ち、出身小学校も創立10年ほどの学校です。ところが慶應義塾高等学校に入学すると、校長先生の話などに幕末のエピソードが出てきます。校舎も戦前のもの。それまで歴史に飢えていたところがあり、徐々に学校の歴史や、その原点である福澤諭吉について知りたいと思うようになり、現在に至っています。中津のみなさんは校歌などを通して、知らず知らずのうちに福澤諭吉を意識するようになっているのでしょう。

奥塚市長:ただ、私もそうでしたが、福澤先生や、先生が育てた数多くの中津出身の人材について、深いところまで知っている人は多くありません。著書を読み、先生のことを知れば知るほど、現在あるいは未来の中津市において、福澤精神について改めて考える必要があると思うようになりました。福澤先生が江戸、明治の変革の時代に考えたのは、「日本人がどうしたら幸せになれるか」ということ。「不滅の福澤プロジェクト」を通して福澤先生について学び、その精神を、我々が進む方向のヒントにしたいと思っています。

都倉准教授:歴史を研究している立場からすると、お札の肖像になったがゆえに、福澤諭吉は「国のお墨付きの偉人」になってしまい、ある種のバイアス(偏見や先入観)がかかってしまったのではないかと考えます。肖像交代は、福澤諭吉の再評価という意味で良いチャンスです。プロジェクトの柱は何ですか。

奥塚市長:今までやってきた小中学生の福澤諭吉の検定制度などの人材育成事業は強化し、慶應義塾の協力の下、新たに福澤諭吉をテーマにしたまち歩きマップも作成中です。このマップも活用し、城下町を回遊する仕組みづくりを進めています。また、福澤記念館や中津市歴史博物館でもいろんな企画展を行います。今、中津市出身の作家が福澤諭吉のファンタジー小説を執筆中です。慶應連合三田会大会にブースを出すなど、オール中津で中津市の情報を全国に発信していきます。

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