文字サイズ
自治体の皆さまへ

ふるさとの文化財探訪 第107回

20/33

大分県九重町

『貞と有隣』

文化財専門員 竹野 孝一郎

有隣(ゆうりん)の父元翠(げんすい)は、井上吉左衛門重信といい、通称を苅田屋加助といった。
元翠は俳号。有隣は井上源七信清といい、俳諧を好くし、野坡(やば)に師事した。
九州行脚の野坡が元翠亭(現行橋市大橋)を敲いたのは、享保13年(1728)の事で、同年4月上旬小倉にあった野坡は、約一月近く程十亭に旅寝し、程十の『門司硯』出版の後見をして、編集を馬貞にまかせた。
有隣は同門として馬貞・遊五(ゆうご)等とも俳交があり、寛保2年(1742)秋、遊五が播州増位山に詣で、芭蕉遺物の加賀蓑の毛を持ち帰って、有隣に分け与えている。
馬貞は元文2年(1737)6月、有隣亭に旅寝し、
寝て肥し旦(あした)や市の初鰹 馬貞
の吟を残している。有隣亭付近には、魚屋が軒を連ねていたと言われています。初鰹は夏の季語で、回遊魚である鰹は初夏の頃、黒潮に乗って南方から日本近海にやってきます。
今日井上家には、有隣宛の馬貞の書簡や、馬貞の紀行『築波の道連』、馬貞の懐紙・短尺などが多く襲蔵されている。『築波の道連』には、年紀がないのですが、7月18日馬貞・有隣・居由の3人は、大橋の有隣亭から苅田へ向かっています。途中小さい森の中に柳ヶ浦で入水自殺した平清経を埋葬したという古墳に詣で、東伝寺でブドウをご馳走になっています。
その後、大橋に帰る有隣と居由に別れを惜しみ、
筒脚絆うしろ向たりきりぎりす 馬貞
の句で見送っています。
馬貞は、大橋滞在中如風亭を訪ねたり、有隣亭近くにある安楽寺(現在廃寺)の住職旧誓老翁の墓参をしています。旧誓は、自分が死んだら枯野塚(芭蕉塚)の横に自分の墓を並べるようにとの遺言によって、大橋連衆はその遺言にしたがい枯野塚の脇に葬っています。枯野塚は、有隣の父元翠によって宝永初年に建立されたものです。
願ひ此枯野の蝉の夢隣 馬貞
有隣は、馬貞追悼句集『暁塚集』に、四十九日の追善の句を寄せている。その前書に、「往昔亡父(元翠)か交りよりかそふれハ五十とし餘り三年に過たり」とあり、父の代から数えて53年の交わりがあったという。
元禄12年(1699)刊の三惟(さんい)編・榎並舎羅跋(えなみしゃらばつ)の『梅の嵯峨』に、投錐(とうすい)(馬貞)と元翠が並んで句が入集されている。
着て見たるこや陸奥の布つきん 元翠
こからしや鶏のそく臼の底 投錐
53年の交わりは、馬貞が「投錐」と俳号を名乗っていた頃からの風交である。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU