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市史だより vol.290

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大阪府和泉市

■坂本郷庄(ごうしょう)の地侍(じざむらい)
前回の「市史だより」では、中世に京都の北野宮寺(きたのぐうじ)(北野天満宮)が支配した荘園「坂本郷庄」を紹介しました。今回は、その内部にいた地侍を紹介します。

図(本紙参照):伝坂本城跡周辺図
(和泉市史編さん委員会編『和泉市の考古・古代・中世』2013年、447ページ掲載)

北野天満宮に残された「引付(ひきつけ)」と呼ばれる室町時代の記録からは、現在の寺門・今福・観音寺・桑原・一条院・芦部・阪本の各町の辺り、すなわち「郷荘(ごうしょう)」と呼ばれる地域は、坂本郷庄という荘園の領域であったことが窺(うかが)えます。
「引付」からは、代官の名前、税として納められた物品の内容、銭の金額などが分かります。しかし、現地でどのような人びとが生活していたのかは、あまり記されていません。これは、荘園の支配や出来事の記録を中心に執筆された「引付」という史料の性格を物語っています。
坂本郷庄の内部のことが分かる史料が、郷荘神社(阪本町)に残された天正(てんしょう)七年(一五七九)の棟札(むなふだ)です。棟札とは、建物を建立(こんりゅう)したり、屋根を葺(ふ)き替えたりした時に、年月日や寄進者の名前などを記して、屋根裏へ納める木製の板のことです。『和泉市史紀要第21集』では、その全文を紹介しています。
これによると、現在の郷荘神社は、そのころ禅寂寺(ぜんじゃくじ)の鎮守(ちんじゅ)として祀られており、「十九所大明神(じゅうきゅうしょだいみょうじん)」と呼ばれました。この年、神社の上葺(うわぶき)きに「大旦那(だいだんな)」として寄進の中心となったのが、「大殿(おおとの)」と呼ばれる坂本近江守入道順喜(さかもとおうみのかみにゅうどうじゅんき)なる人物でした。棟札には、順喜に続いて、「中殿(なかどの)」岩見守貞助(いわみのかみさだすけ)、「若殿(わかどの)」八郎助(はちろうのすけ)、そして「大工(だいく)」藤原宗広(ふじわらのむねひろ)の名前が記されます。大殿は、この地域の地侍(在地領主)である坂本氏の当主であり、中殿・若殿は、その子孫とみられます。
この棟札には、ほかにも坂本氏の人物が槇尾山(まきおさん)で僧侶をしていたことや、積川弁財天(つがわべんざいてん)(岸和田市積川町)から材木を取り寄せたことなども記されています。なお、藤原宗広は、天王寺を拠点とする檜皮(ひわだ)大工であり、泉穴師(いずみあなし)神社(泉大津市)の摂社春日(せっしゃかすが)神社棟札などにも、その名前が記されています。
さて、坂本氏一族は、この後どのような歴史をたどったのでしょうか。
天正七年から百数十年後の江戸時代に編纂(へんさん)された「泉邦四縣石高寺社舊跡幷地侍伝(せんぽうしけんこくだかじしゃきゅうせきならびにじざむらいでん)」という資料には、和泉国の地侍三十六人の一人として坂本近江守が紹介されており、その子石見守(いわみのかみ)は、織田信長と本願寺とが大阪湾木津川河口で激突した合戦で「討死(うちじに)」し、その子孫は地元を転出して大名に仕えたとの記事があります。
しかし、木津川口の合戦は天正六年の出来事であり、棟札には没後の石見守の名前が記されたのかを含め、記事の信憑性は慎重に判断されなければなりません。
現在、阪本町には、「殿屋敷(とのやしき)」と呼ばれる、水路に囲まれた50メートル四方の土地があります。ここに坂本氏の屋敷があったのかも知れません。
坂本郷庄を含む、中世の府中地域については、『和泉市の歴史5』(今年度刊行予定)で詳しく紹介します。

問合せ:文化遺産活用課
【電話】99・8163

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