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特集 司馬遼太郎生誕100周年(1)

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大阪府東大阪市 クリエイティブ・コモンズ

■司馬遼太郎生誕100周年魅了し続ける作品群東大阪から
今年の8月7日、作家・司馬遼太郎さんの生誕100年を迎えます。
作家生活の大半を東大阪市内で過ごされ、膨大な資料をもとに歴史小説やエッセイ、紀行文などを発表し続けました。
今回は、そんな司馬さんの姿を振り返っていきます。

◆司馬さんの生涯
1923年(大正12年)
8月7日大阪市に生まれる
本名は福田定一。幼少時から読書好きで、図書館のあらゆる蔵書を乱読し、料理や釣りの本まで読んだ。
1943年(昭和18年)
学徒出陣のため大阪外国語学校(現:大阪大学外国語学部)を仮卒業し、軍隊に入隊する
1945年(昭和20年)
満州の戦車部隊に配属された後、本土決戦のため国内へ戻され、栃木県の佐野市で終戦を迎える戦争体験に大きな衝撃を受け、なぜこんな馬鹿な戦争を…昔の日本はもっとましだったに違いない、と考えたことが、日本史に対する関心の原点となった。
1948年(昭和23年)
産経新聞社に入社。1961年(昭和36年)に退社するまで13年間勤務する
1956年(昭和31年)
新聞社勤務の傍ら執筆した短編小説『ペルシャの幻術師』が講談倶楽部賞を受賞する
司馬遼太郎の筆名で初めて文壇に立つ。筆名の由来は「自分は中国の史家、司馬遷には遼(はるか)に及ばない」から来ているという。
1960年(昭和35年)
『梟の城』で直木賞受賞。翌年に産経新聞社を退社し、作家生活に入る
1964年(昭和39年)
布施市(現:東大阪市)に転居する
東大阪市内に居住しながら執筆活動を続ける
1966年(昭和41年)
『竜馬がゆく』『国盗り物語』にて菊池寛賞受賞
1968年(昭和43年)
『坂の上の雲』の連載を開始する
1971年(昭和46年)『街道をゆく』の連載を開始する
同作は日本の街道、時には海外の街道を歩き、そこに生きた人々や歴史などを考察した紀行文で、生涯に渡って書き続けた。
1996年(平成8年)
2月12日死去。享年72歳。忌日は「菜の花忌」と呼ばれる
3月4日東大阪市名誉市民となる2001年(平成13年)司馬遼太郎記念館が自宅隣接地に開館

■菜の花忌司馬さんが好きだった「菜の花」
司馬さんが生前好きだった菜の花や、長編小説『菜の花の沖』にちなみ、命日の2月12日は「菜の花忌」と命名されました。
毎年、地元の学校や自治会、ボランティアなど42団体でつくる「春一番に菜の花忌の会」が、記念館の書斎前の庭を菜の花で飾りつけられます。近鉄八戸ノ里駅と河内小阪駅の周辺にも菜の花のプランターが並べられ、街中に春の香りを届けています。

■司馬さんと小阪・八戸の里のまち
1964年(昭和39年)に大阪市内から東大阪市へ移り住んだ司馬さん。司馬さんは、都市のざわめきのあるようなところが好きだったそうです。
商店街の活気あふれる喧騒の中、庶民的な暮らしが根づいている小阪や八戸の里のまち。
司馬さんは夕方、執筆の合間に夫婦でこのまちを散歩されました。喫茶店やそば屋さんで気分転換の休息を楽しんでおられたのでしょう。

■司馬さんの軌跡
司馬遼太郎記念館館長の上村洋行さんに、司馬さんの作品の魅力や人となりを聞きました。

◆周囲の人に思いやりをもっていました。
―上村館長から見た司馬遼太郎さんはどういう印象でしたか。私の姉が司馬遼太郎と結婚したので、私は義理の弟になります。初めて会ったのは小学校高学年の頃。大学生の頃から結婚するまで、司馬遼太郎の家に居候していました。司馬遼太郎からすれば、妻の弟という関係性ながらも、同居生活の中で自分をごく自然に受け入れてくれました。司馬遼太郎は「温かく、穏やか」な人物で、周りの人へ常に思いやりをもっていました。今になってみると、そうしたところで司馬遼太郎の作品、文章の一端に触れていたような気がします。
また、司馬遼太郎は非常に話し方が魅力的で、かつ聞き上手でもありました。私が司馬遼太郎と生活のちょっとしたことを話すと、それが一つのエッセイのようなものに変わるのです。それは知的エンターテインメントと言えるようなもので、編集者の皆さんからは「座談の名手」と言われていました。

◆50年、60年前に刊行されているのに、新鮮さを感じる。
―司馬遼太郎さんの魅力や愛される理由はどのようなものですか。去年の秋にアンケート調査を行ったところ、「五十年、六十年前に書かれていながら、今出版されたような鮮度を感じる」「何度も読み直しているが、その都度、司馬さんからの新たなメッセージを受け取っている」という感想がありました。
記念館活動の中で一般の方や学者の方などと話していても、同じような感想に帰結することがあります。
また、司馬遼太郎の作品は読み手に考えさせる文体になっていて、余白があります。読み手それぞれが結論を受け取れる余地があるのだと思います。
世代や世の中は変わっていくが、こうした感想を抱かせるところに魅力の一つがあるのだと思います。

◆これから作家・司馬遼太郎として歩んでいきたいという覚悟だったと思うんです。
―来年2月18日(日曜日)まで開催されている「作家の道へ」の見どころは何ですか。
「一枚の絵」と呼んでいる絵を展示します。この絵は、私が小学校6年生の時に、司馬遼太郎が私の目の前で描いてくれたものです。「絵を描いてやろうか?」と色紙にクレパスを使って30分ほどで書き上げたこの絵を、私は額に入れ、大切に保管していたのです。時々絵を見ては元気をもらっていました。司馬遼太郎が亡くなった後、額を外したら絵の裏面に文章が書かれていて驚きました。「暁闇に立つ一本の孤峭な樹を描きました。人生へのきびしい覚悟としたかったのです。昭和30年11月14日」と書かれていました。日付を考えると、『ペルシャの幻術師』を書きあげたころで、これから作家・司馬遼太郎として歩んでいくという覚悟だったと思います。

◇上村洋行(うえむらようこう)
東大阪市生まれ。1967年産経新聞社入社、京都支局から記者生活をはじめ、京都総局長、編集局次長などを歴任後、退社。現在、公益財団法人司馬遼太郎記念財団理事長と司馬遼太郎記念館館長を兼任。

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