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〈多賀城の歴史と文化〉歴史の風

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宮城県多賀城市

■連載143 多賀城と国司館
代の多賀城は、陸奥国の国府としての機能も併せ持っていました。国府には、中央政府から国司と呼ばれる役人が派遣されました。現在でいうと県知事のようなものです。派遣された国司は、4年という任期があり、政庁の外に館(たち)(屋敷)を構えました。多賀城の南面には、道路によって区画されたまち並みがひろがっており、なかでもメインストリートである東西大路沿いに国司館(こくしのたち)があったことが分かっています。今回は主に2つの地点について紹介します。
東西大路沿いの(1)地点は、区画の中央部で、庇付(ひさしつき)の格式の高い建物が発見されています。注目されるのは、庇付の建物の周辺に貴族の庭園を思わせる遣り水状の遺構が見つかっていることです。
また、中国産の白磁や青磁などの高級な陶磁器や「守(かみ)」(国司のこと)と書かれている土器が出土していることも、ここに国司館があった場所と推定される根拠です。時代は9世紀前半から10世紀前半です。
千刈田地区の(2)の地点にも発掘調査から国司館跡と考えられる遺構が見つかっています。この区画においても、庇が付いた格式の高い建物を発見しています。また、「右大臣殿餞馬収文(うだいじんどのせんばしゅうもん)」と書かれている木簡が出土しています。この木簡から右大臣へ昇進の際に餞別(せんべつ)として馬を贈るような人物がここに住んでいたことが分かり、そのような人物は国守と想定されることから、この地点が国守館と考えられています。ここでも先の区画同様高級な陶磁器が出土しています。10世紀前半に国司館として機能していました。
このほかにも、館前遺跡や(3)の地点で国司館が見つかっています。
※国司館位置図は本紙21ページをご覧ください。

問合せ:埋蔵文化財調査センター
【電話】368‒0134

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