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(歴史探訪)中世の供養塔「板碑(いたび)」

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宮崎県日向市

鎌倉時代から江戸時代前期にかけ、主に死者の供養のため、板碑と呼ばれる石造の供養塔が各地に建立されました。
市内には室町時代から江戸時代前期にかけて建立された板碑が380基以上残されています。ただし、土中に埋もれているものや長い年月が経過する中で人々から存在が忘れられたものなどもあると思われ、実際はさらに多いとみられます。
板碑は、上から山型部、額部、碑身部、基部からなり、山型部と額部の境には2本の切り込みが線状に入っています。碑身部は額部から一段下がり、ここに願文や偈頌(げじゅ)と呼ばれる仏教の経典の一部を引用したもの、施主、年号などの文字が彫られたり、墨で書かれたりします。
年号が確認できる市内で最も古いものは、現在、日知屋城跡で祀られている永正6年(1509年)のものです。この板碑は伊東祐国(いとうすけくに)、祐邑(すけむら)の供養のために伊東家の家臣が建立したものとみられます。
新しいものでは東郷の小野田、迫野内、田野に元禄4年(1691年)の年号のものが3基あります。この年は前年から続いた山陰百姓一揆が終息する年ですが、一揆と関連性は明らかではありません。
板碑の大きさは様々ですが、羽坂区深瀬にある薬師堂の境内に建立されている指定文化財「深瀬の板碑」10基のうち、寛永14年(1637年)に建立された1基は地上部だけでも180cmを超え、市内でも最大規模の板碑です。これらの板碑は、この地に庵を結んでいた関係者の供養塔と伝わっています。
各所に建立された板碑も、江戸時代中期には没年月日や戒名を刻む近世の墓碑へと移行し姿を消していきました。

問い合わせ:教育総務課文化財係
【電話】66・1036

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