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自治体の皆さまへ

知っておきたい上関 ~残したい大切なひと・まち・こころ~

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山口県上関町

上関町在住のシニアの方々にお話を聞き、後世に伝えていきたい大切なものやこと、守りたい技術、ふるさとへの想いなどをお伝えするコーナー。
読んでくださる皆さまの“心の栄養”となりますように。

空は青く澄みわたり船旅に最高の日、数年ぶりに「いわい」に乗り祝島へ向かいました。港で出迎えてくれたのは、橋部好明さん81歳。「林さん、初めましてじゃないね。以前室津でお話したよね」と、数年前のことを覚えてくださり、嬉しい気持ちでの取材スタート。

■祝島と言えば…
船着き場から海沿いを歩きながら、自宅前へ到着。「ここは昔、石ころの海岸でね、家から海に飛び込んでよう遊びよったんよ。そしてこの海岸沿いにも練塀があったんじゃからね」
と、懐かしそうに話をしてくれる橋部さん。さっそく「練塀(ねりへい)」というキーワードが出てきました。
祝島の練塀は防風や高潮など、島の厳しい自然環境から家屋や通りを守るために造られたもので、火事の際は飛び火を防ぐ機能も果たし集落を守ってきました。
練塀を横から見てみると、想像以上の厚さに驚きます。その幅約50センチ、大小の石を二列に並べ、その隙間に練った土を詰め、表面を漆喰で固めて造るそうです。橋部さんいわく、石はつるっとしたものより、ごつごつ凹凸のあった方が泥団子がくっつきやすくて良いのだと。
迷路のような練塀通りを案内してくれる橋部さん。平成19年、21年にわたり「祝島集落練塀修復保存会」の代表として、大学の教授や学生と共に「練塀修復プロジェクト」を企画。463人のボランティアの皆さんと、延べ375メートルの練塀を修復したそうです。ふるさとの景観を守ろうというこの活動は平成22年「中国地方地域づくり報告会」において大賞を受賞、多くの島民の方が参加された点も高く評価されました。

■支えあいの石垣に重なる人々の姿
海に囲まれた祝島では、石は貴重な資材であり、練塀以外にも「石垣(平さんの棚田で有名)」として大きな役割を果たしてきました。
橋部さんのご自宅の屋上から見える祝島小学校の旧校舎も、実は大きな石垣の上にあります。その石垣、高さは約11メートル、L字型に東西約180メートル。その上に校舎とグラウンドがあるのです。
昭和初期、集落の中にあった祝島の尋常小学校は、子どもの増加に伴い校舎が手狭となり校舎改築が必要になりました。土地が限られる島で場所を選ぶのには色々あったそうですが、最終的に山側の傾斜地に決まったそうです。
「傾斜の段々畑に石を積み上げて学校を建てるという発想がすごいよね。当時の人たちは、石垣を積む自信があったということじゃね」と、誇らしげに説明してくださいました。実際に間近で石垣を見るとその大きさに圧倒されます。祝島小学校の校歌「お城のような高台に~♪」とあるように、まるで城壁。石垣の下側には大きな石が並び、上になるにつれ徐々に小さくなり、そのバランスがとても美しいのです。
それにしても、こんな石をどうやって積むのでしょうか?
橋部さんの話によると、「谷落とし積み」という村上水軍から伝わる方法で、上から石を落とし、積み重ねるのだそう。コンピューター技術のない時代に、棟梁は頭の中で石垣の立体イメージをし、配列を考え、石を順番にうっていたのですから、その感覚にも驚かされます。
「よく見てごらん。一つの石を取り囲むように石が置かれちょるじゃろう」
一つの石を中心に5、6個の石が囲んでいます。そして囲んでいるはずの石をまた別の石が同じように囲み、またその隣も…と常に隣り合い、支え合い、この頑丈な石垣が成り立っているのです。
「この石垣はまさに祝島で暮らす皆さんのようですね!支え合いの石!」橋部さんから聞いた祝島の歴史と風土、人々の気質と暮らしが私の頭の中

■石積み技術がもたらした恩恵
この石積み技術を祝島に取り入れたのは、杜氏として出稼ぎに出た男性達でした。
その昔、農業が主だった祝島。明治時代には橋部さんのひいおじいさんをはじめ、多くの男性が冬の間、島外に出稼ぎに行きました。杜氏として酒造りをする合間に、石積みの方法を習ったそうです。その中の一人、橋本さんは自分が習った石積み技術を祝島で使うべく、内弟子を5人とりました。ここから石積み技術が祝島に浸透し、島の暮らしが少しずつ豊かになっていったそうです。
では、なぜ石積み技術が暮らしを豊かにしたのか、このお話がまた興味深いものでした。
海にぽっかり浮かぶ祝島には川がありません。「治水」は島の生活にはとても重要な課題でした。簡潔にいうと、石積みの技術が入ってきたことにより、山から湧き出る水を貯め田んぼが作れるように。畑だけだったところでお米が作れるようになり、栄養状態が上がり自然と子どもが増え、島は栄えていったというわけです。そして島外へ出る人たちのためにも、読み書き、算数など勉強も大切にしたそうです。
大正時代には、北野地域の75軒のお百姓さんが組合を作り、大金を借りて共同でため池を作り、田んぼを作ります。その後、東側のカタイ地区にもため池ができ、棚田が広がりました。
「大切な水、一滴も捨てるなよ」という共通意識の元、みんなが団結して整備事業に取り組んだのだそう。「当時、きちんとまとめられる人がいたということよね。そして頑張る人が多かったんじゃね」と橋部さん。男性だけでなく、女性たちも歌を歌いながらリズムよく石をたたきつけ、石灰を固めていたそうです。橋部さんの話を聞いていると、自然と当時の様子が目に浮かびます。
四方を海に囲まれた祝島、島という限られた条件だからこその苦労がたくさんあったことでしょう。しかし、だからこそ助け合い、支え合わねば生きていけなかった。共助・共同意識は環境と生活の中から自然と育まれ、強く根付いたのでしょう。そして今も守られている島の暮らしや人々の生き方は、島だからこそ続き、守られているのかもしれない…。そんなことを考えながら帰りの船に乗ったのでした。
次号は、橋部さんの生い立ちや、ライフワークでもある「神舞」について。

取材:林未香

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