文字サイズ
自治体の皆さまへ

知っておきたい上関 ~残したい大切なひと・まち・こころ~

16/42

山口県上関町

上関町在住のシニアの方々にお話を聞き、後世に伝えていきたい大切なものやこと、守りたい技術、ふるさとへの想いなどをお伝えするコーナー。
読んでくださる皆さまの“心の栄養”となりますように。

前回に引き続き、祝島の橋部さんにお話を聞きました。

■生い立ちと大きな転機
昭和14年、7人兄妹の5番目として生まれた橋部さん。小中と祝島で過ごしました。中3で、熊本県立熊本高等学校(旧第五高)の試験を受けて見事合格、単身で熊本の伯父さんの元に引っ越すことになりました。しかし、父の喘息の悪化に伴い途中で祝島に戻り、熊毛南高校上関分校へ転校します。高校卒業後は公務員試験を受け祝島郵便局に就職し、父の仕事も手伝っていたそうです。当時の郵便局では電話の交換という仕事があり24時間体制、夜勤もあったそうです。そして昭和51年には郵便局の電話交換も廃止され、NTTへ。手作業から機械に変わる大きな変革の時代でした。橋部さんはそちらからも声がかかりましたが、当時の局長さんに祝島郵便局に残るよう引き留められます。実はこれが橋部さんにとって大きな転機だったのだとか。「あの時、引き留められなければ島の外に出ていたかもしれないんよね」と橋部さん。もし出ていれば、このように神舞に関わることもなく、記録も残せなかったかもしれません。そして2003年から橋部さんが日々更新している祝島の紹介ホームページ「祝島フォト情報」もなかったかもしれません…。
橋部さんが祝島のお祭り「神舞」の記録を取り始めたのは昭和51年、自らが祭りのノウハウを覚えるためでした。その後自治会から正式に記録を残してほしいとの依頼があり、昭和59年1月には「あとは頼むぞ」と神舞の責任者に任命されます。学生時代は級長を、そして大人になってからは町の教育委員を続けてこられた真面目な橋部さんですから、適任です。

■御恩と奉仕、感謝の祭り
「神舞」は、祝島と海を隔てた大分県国東半島の伊美別宮社をつなぐ、壮大なお祭り。このお祭りに際し、伊美の人々は「奉仕(神楽を舞うこと)に参りました」と言い、祝島の人々は「生活の糧をありがとうございました」と返すのだと、橋部さんが教えてくれました。この言葉の裏側=神舞のストーリーを少し振り返ってみたいと思います。
伝説によると、仁和2年(886年)、豊後国伊美郷(大分県国東半島)の人々が領主の命をうけ、山城国(京都府南部)の石清水八幡宮の御分霊を勧請(かんじょう)しに上がりました。一行は海路での帰る際に嵐にあい、祝島の三浦湾に漂着。当時三浦湾にあった3軒の家が、生活が苦しかったにも関わらず、心からもてなしてくれたそうです。
神官ら一行は大変感謝し、そのお礼として島に神様を祀り平安を祈願、貴重な五穀の種を分け与えました。これを縁起に島の人々は荒神を敬い、豊かな実りをもたらす大歳神を祀り、もらった種を植えて農耕を始めます。それまでは木の実や海藻などを採集して生活をしていましたので栄養が足りず、子どもがなかなか成長できませんでしたが、農耕を始めたことにより少しずつ安定して穀物を収穫できるようになり、子どもが増えていったそうです。これに感謝した島の人は、毎年収穫した麦を俵につめ「お種戻し」と称して伊美別宮社にお礼参りをするように。そして4年ごとに伊美別宮社から神職や神楽を舞う里楽師をお迎えし、祝島を舞台に合同で祭祀を行うようになりました。これが今も続く「神舞」なのです。神様への感謝の気持ちと、祝島と伊美の人々が互いに抱く御恩と奉仕の心、そして交流。これが時空を超え1200年も守り続けられているのですから、本当にすごいことです。
※祝島フォト情報より一部引用

■お祭りの本質とは
昭和59年と63年に2度中断された神舞ですが、平成4年には過去の記録と写真を元に見事復活します。その時の祝島の皆さんの喜ぶ様子は、すごかったそうです。先頭の櫂伝馬に続く御座船やお供の船のパレード、海の向こうから風にのって聞こえる太鼓と笛、鐘の音。これらの音が祝島の人々の魂に響くのでしょうか…「ようやってくれたね。あの音を聞かんにゃ死なれんと思いよった」と、あるおばあちゃん。今でもその言葉が橋部さんの心に強く残っているそうです。
そして島外に出た皆さんも「神の島に帰る」と言うように、祝島の人にとって神舞が心のふるさとに。同時に4年という単位が、家族や人生の節目にもなっているのだと言います。
「でも神舞は記録だけではどうしようもないんよ。みんなが団結しないとできないんよね」と橋部さん。神事はお迎え、お見送りも含め5日間ですが、本格的な準備は1年も前から始めるそうです。神様をお迎えする仮神殿の土台となる竹切りから、仮神殿造り、苫編みや、しめ縄作り、紙の切飾りもすべて手作業。そして櫂伝馬などの練習も…。橋部さんの資料を見ていると、地域の皆が力を合わせなければ絶対にできないことが分かります。
「でもね、お祭りには大きな力があると思うんよ。皆が集まってわいわい準備をすることで団結心がうまれる。そして一緒に手を動かし作業していると、日頃のちょっとした心のわだかまりが自然ととれるんよ。これが氏神さまの力かな」と橋部さん。この言葉にお祭りの本質が見えた気がしました。

■次の千年への中継ぎとして
「千年以上続いてきた神舞。私はその間の短い期間の中継ぎなんよ。でもまた次の千年続くように、しっかりと役目を果たさんにゃいけんね」穏やかな口調の中に、橋部さんの強い思いが詰まっていました。

2020年はコロナ禍で開催できませんでしたが、予定では2024年が祭祀の年。しかし超少子高齢化と過疎化の問題が、お祭りの存続も含め迫ってきています。この波は他の地区も同様、リアルな問題です。人口2000人少しの小さな上関町、自分の住む地域はもちろん、その他の地区にも互いに心を向け、助け合わねばならないなと、改めて感じた取材でした。

小さな島の大きなお祭りが次の千年も続きますように…。

「祝島フォト情報」
【HP】https://iwai-island.jp/

取材:林未香

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU