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〔郷土史コラム〕やないの先人たちの知恵と汗-中世編

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山口県柳井市

■武士の社会になった柳井(1)・地頭の新設
市教育委員会社会教育指導員松島幸夫
翠が丘に複合図書館が建設されている機会をとらえて、知力を生かして社会発展に貢献した柳井の先人たちを6回にわたって紹介してきました。今回からは通史にもどり、中世の柳井について見ていきます。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、国ごとに守護(しゅご)を任命し、村ごとに地頭(じとう)を置いて、武士が支配する体制を確立しました。柳井の村にもくまなく地頭が配置されました。国衙領(こくがりょう)(天皇領)では公文(くもん)が村長の役割を担っていましたが、そこへ警察権を持つ地頭が新たに配置され、支配者が並立することになりました。配置当初の与田保(よだほ)(余田村)の地頭は実直に村内の治安活動に精を出しましたが、与田(よだ)朝俊(ともとし)が地頭に就任すると、農民に対して横暴な態度をとり始めます。刀を振り回し、矢を構えて脅(おど)し始めたのです。「泣く子と地頭には勝てぬ」の言葉どおり、武力を持った地頭に対して民衆は黙って従うしかありませんでした。農民が育てた稲を勝手に刈り取ったり、農民を拉致(らち)して自分の家来にしたり、農具や牛馬を盗んだりしました。次から次へと悪行のかぎりを尽くしたのです。それらの横暴が行われるたびに、公文は防府の国府(こくふ)や鎌倉幕府、さらには奈良の東大寺へ訴状を提出しました。東大寺へ訴え出たのは、奈良の大仏殿を再建する際に、与田保を含む周防の国衙領を天皇が東大寺に寄進していたからです。20回以上に及ぶたびたびの訴えにもかかわらず、根本的な解決には至りませんでした。地頭に対して形式的に乱暴狼藉の停止が命じられましたが、その効果は長続きせず、暴力行為が繰り返されました。
ひるがえって、現在では暴力が許されない社会になりました。自然に乱暴狼藉が消滅したのではなく、先人たちの努力が積み重なって今の暮らしがあるのです。正義感のある先人たちの努力に、感謝と尊敬の念を禁じえません。

問い合わせ:文化財室
【電話】22-2111内線333

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