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中山町歴史散策 第190話俳諧(3)

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山形県中山町

安永(1772年~1781年)の頃から、伊勢参詣が盛んになると、松尾芭蕉の後継者であった美濃の国の各務支考(かがみしこう)に、参詣の途中で寄り道をして教えを乞うという風習が生まれました。詳細については、後段で示しますが、享保13年(1728年)に鶴岡の俳人林風草は、美濃の獅子庵を訪れ、「俳諧歌枕」を草しています。
この原本は酒田市の光丘文庫にありますが、その写本が、宝暦8年(1758年)当町の文新田の服部文右衛門の手に渡りました。
「俳諧歌枕」の序文に、蓮二坊こと各務支考の文章があり、風草が獅子庵を訪れてから30年を経て、中山の地に伝わったことになります。
もうひとつ、獅子門4代目の宗匠である田中五竹坊(たなかごちくぼう)の序文を持つ「俳諧発句」について見ると、安永3年(1774年)、前書と同様に、伊勢参詣に出かけた折、美濃の五竹坊を訪れ、その13年後の天明7年(1787年)当町金沢の鈴木源次郎(俳号蝶宇)の手に渡った写本です。このように、当町から獅子庵を訪れた人の記録は見当たりませんが、訪問者の写本がいくつも流れ込んでいるのは、俳諧が盛んな地であったことを示すものと思われます。
こうした傾向は、多くの寺社に俳額を掲げる気運を生み、吟行会もしばしば行われました。幕末の混乱相次ぐ中で、不作凶作が加わる時勢でも、風雅を楽しむ気風が育っていたようです。

▽用語の説明
各務支考:美濃の国の俳人。別号は、野盤子、獅子庵、蓮二坊など。松尾芭蕉に入門。俳論書「葛の松原」を編集して、蕉門俳人として確固たる地位を築いた。芭蕉の死後は蕉門俳諧の指導者としての地位を固め、美濃派と称される。
獅子庵:支考の住居跡。
獅子門:支考の一派のこと。
※引用
中山町史中巻第10章第3節文芸と美術工芸

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