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中山町歴史散策 第199話俳諧(12)俳諧歌枕と俳諧発句その2

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山形県中山町

先月号でご紹介した文新田の服部文右衛門家の「俳諧歌枕」の序文については、短い文章ながら、俳諧人の名文というべき口調のよさで統一されているのはさすがといえます。
末尾にある「享保戌申年」は享保13年(1728年)のことで、また、風草とは、西鶴岡の林風草こと「柳下斎菅谷風草」のことです。
ここで少し、芭蕉について述べると、元禄2年(1689年)春、芭蕉は江戸千住より「おくのほそ道」紀行に出発し、6月3日大石田から清川に下りました。この時、大石田の高野一栄らの句会に招かれて、
「五月雨を集めて涼し最上川」
の初句を挙げています。やがて狩川、手向を経て羽黒山に向かいました。途中で門人の近藤呂丸(芭蕉の三日月日記受領者)羽黒別当代会覚らの案内を受け、6月4日には羽黒で俳諧興行を行っています。6月9日には、鶴岡の門人長山重行(ながやまじゅうこう)(元最上藩士、最上家改易により庄内酒井藩召抱え、150石)宅で興行された芭蕉の送別句会ともいうべきもので、そこに酒田の不玉も加わって、芭蕉、未覚、会覚、曽良、重行、呂丸の顔が揃いました。芭蕉は、象潟に出て、6月18日に酒田に帰ると、土地の豪商鐙屋惣右衛門(俳号玉志)らと俳諧を行っています(『鶴岡市史』上巻)。
このように、大石田、羽黒、鶴岡、酒田と俳諧興行を開き、6月27日鼠ヶ関から越後に出、やがて大阪・京都を巡り、江戸に戻ったのは元禄4年のことでした。
芭蕉は「おくのほそ道」紀行に限らず、訪れた先々で門人、入門者、武士、商人、僧侶、神主、大百姓らを中心に俳諧を興行しているが、長山重行のように酒井家召抱えの後、江戸勤番を命ぜられ、既に芭蕉の門人となっていた例もあって、新旧取り混ぜた多くの俳人が県内には既に育っていたのであろうと思われます。特に庄内では、流派はともかく、元禄時代には俳諧の動きが相当活発になっていたことがうかがえます(『鶴岡市史』上巻)。

※引用
中山町史中巻第10章第3節文芸と美術工芸から

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