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中山町歴史散策 第200話俳諧(13)俳諧歌枕と俳諧発句その3

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山形県中山町

元禄2年(1689年)に芭蕉が「おくのほそ道」紀行の後、近畿一円を巡った折、大津の無名庵の俳諧で、各務支考が門人となりました。その頃の支考は、若干26歳の少壮俳人で、翌元禄4年(1691年)、芭蕉に従って江戸に出て、以降、芭蕉の後継者となりました。元禄5年(1692年)、芭蕉の足跡を追って、松島、象潟を巡る途中、鶴岡の永山重行家に泊まっていることから、その時俳諧が催されたのであろうと考えられます。
このように、鶴岡を中心に蕉風俳諧が定着した20年ほど後の享保年間に、深沢嵐七が美濃の支考こと蓮二坊のもとを訪れました。嵐七は近江商人深沢与惣兵衛の子で、鶴岡荒町の住人でありましたが、二見の文台(本をのせる台に、扇の絵に梅の枝と、扇外に二見ケ浦の夫婦岩が描かれた桐板造りのもの。一国一脚の定めがあって、宗匠の位の認定を証するもの)と文書を与えられています。
また、少し遅れて、林風草は、伊勢参拝に出た享保13年(1728年)の夏、蓮二坊を訪れて、服部文右衛門家の「俳諧歌枕」の序文をいただきました。
林風草も「二見の文台」と「三頫の軸」を受けていますが、嵐七のものは火災で焼失、林風草のものは出羽国一円の高弟、上山の万嶽(まんがく)に送られたといわれています。
では、この「俳諧歌枕」がなぜ文新田の服部文右衛門家に残されたのでしょうか。これについては、後書きにある「梨本甚蔵」なる人物を見ていく必要があるようです。

▽用語の説明
少壮:年の若いこと。一般的には20歳~30歳ぐらいまでの年齢をいう。
蕉風俳諧:俳諧で、松尾芭蕉およびその門流の俳風をいう俳諧史的な呼称。
万嶽:金子万嶽。上山に生まれる。俳諧師として古調庵万嶽と称す。

※引用
中山町史中巻第10章第3節文芸と美術工芸から

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