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みのかもの山、望む山 第4回

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岐阜県美濃加茂市

この地域にあって身近に親しまれている山や、はるかに望む山々について、まつわる歴史や文化を紹介します。

■堂洞山(どうぼらやま)
標高:192M
加茂郡富加町と蜂屋町中蜂屋あたりにある南北に細く伸びた山上にはかつて山城があり、かの堂洞合戦(どうぼらがっせん)の舞台となった山として知られます。永禄8(1565)年、中濃地方の攻略を進める織田信長(おだのぶなが)は犬山城を経て木曽川を渡り、この山へと侵攻しました。軍勢に勝る織田軍を前に岸(きし)軍は次々と敗れ、乱戦の中、城主の岸勘解由(きしかげゆ)とその妻は辞世の歌を詠んで自刃し、あえなく落城となります。
もともとの地形を生かした築城であったため、長い年月を経て戦いの名残が消え、主郭があったとされる場所には江戸時代後期に建てられたという「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の名号碑(みょうごうひ)が、静かにその霊を弔っていました。
この古戦場跡を復興しようと昭和40~60年代、周辺地域ではさまざまな顕彰活動が展開されていきます。地区を挙げ結成された顕彰委員会を中心に草刈りや標識の設置などの奉仕活動が行われ、その一つの結実として昭和51(1976)年には中蜂屋の登り口に「堂洞城入口」の石碑が建てられました。当時の新聞記事によると、城の再建を夢見て、あえて「跡」の一字を刻まなかったそうです。史跡をとりまく風景はこのようにして再提示され、地域の誇りとして根付いていくのかもしれません。

つはものゝ 名や苔むして そばの花
これは江戸時代の蜂屋に生きた俳人・堀部魯九(ほりべろきゅう)の高弟の一人であった如朴(じょぼく)の句です(詩集『ふくろ角』所収)。下蜂屋の梅本寺(ばいほんじ)(現在は廃寺)の住職の身でもあった如朴は、その変わりゆく風土に身を置きながら「夢の跡」に散った兵(つわもの)たちに深く思いを寄せていたことでしょう。今でも石碑の前にたたずみ山を眺めると、懸命に生きていた人々の姿とそれを紡いできた人々の足跡が、現在につながるものとして眼の前に立ち現れるようです。

参考文献:『句集「ふくろ角」(兼松嘯風(かねまつしょうふう)編 1705年)』

問合せ:文化の森
【電話】28-1110

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