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安芸高田歴史紀行

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広島県安芸高田市

■シリーズ「博物館コレクション」第25回 清神社棟札(むなふだ)
〔棟札〕
建物の棟上や修理の際、建物名や年月日、願主、大工・祈願文などを記して棟木に打ち付けた木札
安芸高田市歴史民俗博物館 学芸員 古川 恵子

清神社(元祇園社)は毛利氏が本拠を置く以前から郡山の麓に鎮座する古社です。
同社の棟札は1325年から1694年までの16枚が現存しており県の重要文化財にも指定されています。歴代の毛利家当主による社殿の建て替えが行われていることがこれらの棟札から確認できます。
今回はそのうち1522(大永2)年に社殿が建て替えられた際のものをご紹介します。大檀越(施主)は毛利家当主幸松丸で当時8歳(以後数え年)だったことが、棟札に記された生まれ年「乙亥歳」(永正12年=1515年)からわかります。幸松丸はどのような人生を送ったのでしょうか。

◇父の死で幼くして当主に
幸松丸の父は興元(元就兄)母は現在の島根県邑南町と安芸高田市北部などを支配地域としていた高橋氏出身の女性です。誕生の翌年に興元が死去し、わずか2歳で家督を相続します。
当時の毛利氏は出雲の尼子氏と山口の大内氏の勢力争いに巻き込まれていました。1523年6月、大内方の鏡山城(東広島市)への攻撃には、尼子氏側からの強い要求を受けて幸松丸自ら出陣しています。
このことが幼い身にはこたえたのでしょうか、帰陣後に病を発して7月15日わずか9歳で亡くなってしまいました。

◇元就、家督相続
幸松丸が亡くなって4日後、叔父元就に家臣からの家督相続が要請されました。元就の了承を受けて郡山にあった満願寺の僧が元就の郡山入城日を占い大吉と出たのが8月10日(旧暦)。元就が戦国の世の表舞台に登場しました。
ご紹介した棟札は、偶然にもこのちょうど1年前の8月10日、健在だった幸松丸を大檀越として清神社の上棟式が行われた際のものです。現在地元に残された当主幸松丸の活動を伝える唯一のものと言えるでしょう。今年は幸松丸没後500年でもあるのです。


清神社棟札 1522(大永2)年
清神社蔵 高さ:106.4cm

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