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自治体の皆さまへ

語り継ぐ平和への思いー1ー

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広島県庄原市

終戦を迎えてから、ことしで78年。長い年月が過ぎた現在も、かつて戦争で負った体や心の傷、あるいは家族を亡くした悔しさや悲しみを背負い続けている人たちがいます。
しかし、当時を知る人の高齢化が進み、それらの記憶が刻一刻と薄れていくことに、懸念が大きくなっています。
今回は、学生時代に特攻隊の飛行場の建設に携わった中谷憲登さんから、当時の様子や感じたことについて、記憶をたどりながらお話しいただきました。
皆さんも命の尊さ・平和の大切さについて考えてみましょう。

中谷 憲登(なかたに のりと)さん
昭和5年12月20日生まれ
92歳 高茂町

■戦争に突入した学生時代
太平洋争が始まった昭和16年、中谷さんは山内小学校の6年生でした。
当時は、昼間は学校に通い、家に帰ると農業の手伝いをするという毎日を過ごしていました。
戦争が始まってからは、予科練(航空機の練習生)や志願兵の募集も多くなり、友人を含めかなりの人が志願したため、中谷さんと同世代の人は戦地へ行った人が多いそうです。
中谷さんは農業を勉強するため、昭和20年、県立双三(ふたみ)実業学校(現三次青陵高校)に進学しました。
そんな中、戦争はますます激化し、同年5月頃から、日本国内での地上戦に備え、特攻隊(生還を期さない体当たり攻撃部隊)の飛行場が日本各地に建設されるようになります。

■飛行場の建設
全国で飛行場の建設が急がれる中、県内でも高田郡根野(ねの)村(現安芸高田市八千代町)に飛行場(海軍航空隊可部基地飛行場)を作るよう国から命令が下りました。庄原市や三次市周辺の学生・住民に動員が掛かり、当時15歳で夏休み中の中谷さんも、その一員として作業に従事することになりました。
毎朝、学校からトラックに乗せられ現場に向かい、夕方まで作業を行います。
現場では、トロッコのレールを設置・移設する作業や、山から削り出した泥をトロッコで運び降ろす作業をしていました。
中谷さんは、単純作業ばかりで、大したことができているとは思っていませんでしたが、それでも「国のために働く」という気持ちが強かったそうです。
当時は規律が厳しく、監督者の言うことに従わなければ、ひどい罰則が与えられたといいます。
反論したい気持ちはあっても、罰則を恐れて従わざるを得ません。また、勉強がしたいからと言って、させてもらえる時代ではなかったのです。
「成績が優秀かそうでないかに関係なく、誰もが一丸となって国に貢献しようという思いだった」と中谷さんは語ります。

■原爆の投下
いつものように現場で作業をしていた8月6日の8時過ぎ、中谷さんたちは、南西方向の遠くの空でアメリカの爆撃機B29が飛行しているのを発見しました。
現場は山間部の開けた峠道にあったため、広島市上空がよく見えたそうです。B29が広島市上空を旋回した後、パラシュートで何かを投下したのが見えました。人間が降りているのだろうかと思っていると、突然激しい閃光が走りました。そして、しばらくたってから、地響きとともに強い衝撃が襲いました。
「30キロ以上離れていても強い光・音・衝撃を感じるほどの力だった。それが原爆だったのだと後から知った。まさにピカドンだった」と中谷さんは語ります。
現場は騒然とし、作業どころではなくなったため、汽車に乗って庄原に戻りました。

■何もなくなった広島
原爆が投下された後、中谷さんたちは広島市の状況が気掛かりでした。原爆投下から数日後、下級生の友達に「広島に住んでいる姉の様子を見に行きたいから、付いてきてほしい」と誘われ、汽車に乗って広島市へ向かいました。
広島駅に到着すると、駅舎の屋根が吹き飛んで無くなっていることに気が付きました。駅舎を出ると、周りには何もなく、宇品まで見えるほどです。火が残っているのか、火葬をしているのか、煙が上がっていました。
友達のお姉さんを訪ねると、トタンを拾ってきて小さな囲いと屋根を作り、その中で何とか生活している状況でした。
また、広島駅を出発する汽車には、衣服が焼け、裸で子どもを抱いている人もいました。
「原爆で焼けた町の中で、トタンを引っ張り出して雨風をしのいでいたくらいなので、誰もが過酷な暮らしをしていたのだろう。生き残った人たちも、原爆の後遺症に苦しんだと聞いている」と話します。
母校の山内小学校には、広島第一陸軍病院庄原分院山内分病棟が設置され、広島から原爆の負傷者が次々に運ばれていました。そこでは、毎日のように負傷者が亡くなり、学校の裏山で火葬されていました。中谷さんの父親も、薪を背負って火葬の手伝いに行っていたそうです。

問合せ:総務課総務法制係
【電話】0824-73-1123

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