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時悠館

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広島県庄原市

開館:9時~17時、
休館:水曜(祝日開館・翌日休館)・年末年始

■新発見の弥生遺跡「熊野神社境内遺跡」から出土した土器片
今回は、当館の展示品のうち、とっておきの重要資料を紹介します。
平成31年、調査研究の一環として当館学芸員が熊野神社境内を踏査したところ、流路(川の水が流れるところ)の土中から露出した状態で土器片を発見しました。
この土器片は、弥生時代中期後半(約2千年前)の塩町(しおまち)式土器の仲間でした。塩町式土器は新庄町和田原(わだばら)遺跡群(現・桜花の郷ラ・フォーレ庄原、食彩館しょうばらゆめさくら)や、高町・宮内町の国史跡「佐田谷(さだだに)・佐田峠(さだだお)墳墓群」などからも多く出土しています。また、出雲平野など山陰地方へも分布し、船通山(せんつうざん)の麓の島根県奥出雲町代山(だいやま)遺跡・国竹(くにたけ)遺跡からも出土しています。このことから、弥生人が中国山地を越えて盛んに交流していたと考えられていますが、具体的な交通ルートについては、まだ分かっていません。
今回発見されたものはわずか1点の土器片ですが、この発見によって、弥生人が比婆山連峰の尾根筋を往来していた様子が見えてきました。
「出雲國風土記」(733年)には、「『遊託山(ゆたやま)』(比婆山連峰のうち烏帽子山周辺)『阿志比縁山(あしびえやま)』(船通山周辺)に国境を越す道があり、『剗(せき)』(軍事・交通上の要衝に設置する関所)が常に置かれている」と記されています。
今回の発見は、こうした道の元となるルートが、弥生時代から存在したという可能性を示唆するものとして重要です。
また、現段階では論及できませんが、「古事記」(712年)に記された「出雲国と伯耆(ほうき)国との境の『比婆之山』にイザナミノミコトを葬った」とする神話(比婆山神話)などの成立にも関連する可能性があり、今後神話と考古学の接点を広げていくための、さらなる遺跡の発見が待ち望まれます。
この土器片は、当館展示室で展示・解説しています。ぜひお越しください。

問合せ:時悠館
【電話】08477-6-0161

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