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第61回故郷を知る!!

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徳島県吉野川市

■日本遺産藍のふるさと阿波~日本中を染め上げた至高の青を訪ねて~

▽北海道に藍作の地を求め仁木町を開拓した仁木竹吉
天保5(1834)年、麻植郡児島村(児島塚・善入寺島)の小高取(武士待遇)、大島源左衛門の7男として生まれた。(稲田家御家中筋目書による、諸説あり)嘉永6(1853)年大島家から美馬郡拝原村の仁木大蔵家の仁木伊兵衛のもとへ養子に入ることが許可となっているが、拝原村には居住せず、児島村に居住していた。青年期に達し家業の藍製造を受け継ぎ、慶応2(1866)年には徳島藩の藍製取締方に任ぜられた。竹吉が北海道で藍の栽培を熱心に取り組むのもこうした事情による。
明治7(1874)年の吉野川の水害に苦しむ流域の農民の窮状、惨状を救済するために、渡道を決意した。明治8(1875)年1月に麻植・阿波郡長に「北海道渡航ニ付御添翰願」を提出し、3月に北海道へ向かい、旧主である稲田家の移住地、静内から道内を視察した。この視察を通じて北海道でも藍草、煙草、豆類、麦類の生育が可能なことを確信し、開拓使へ「北海道藍・煙・菽麦拡張論」を建言し、明治9(1876)年1月に種子の取り寄せを誓願した。竹吉が渡道後、もっとも主力を注いでいたのは藍栽培であった。
明治12(1879)年5月に「殖民二付願」を開拓使に出し、余市郡への植民計画と移民団の創設に着手した。余市郡が選定されたのは、静内に比べ余市川流域にまとまった未開地が存在したこと、しかも同地は余市川の恩恵を受けた肥沃な土地であったこと、さらには河口には鰊漁場で栄える余市があって藍作の肥料に必要な鰊粕の入手に至便であったことによるものと推定されている。同年12月5日に仁木村と村名設置の儀が出され、明治13(1880)年3月6日に仁木村の設置が布告となった。
大正4(1915)年8月に逝去し、後半生を北海道の開拓にささげた81歳の生涯であった。

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