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伝説の石工・菅能宇吉 ときを積む(2)

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愛媛県東温市

■上林の道を拓く
全国数々の城の石垣を築いた石工・菅能宇吉。
才能は地元でも発揮された

・中玄能
岩を砕くハンマーのような役割。岩を叩いて石を安定させる。

・中玄能(先が鋭利)
先が鋭利なものは、より繊細に石の形を整えることができる。

・鑿(のみ)
玄能で叩いて石を砕く道具。
重量もかなりのもの。

・ショウセン・ダイセン
岩の配置を決めるとき、吊るした岩を回すときに使う道具。長さが長いほど大きな石を操れる

◆仕事に厳しい宇吉さん
「宇吉じいさんは仕事には厳しかった」と菅能宇吉さんの末娘のカネ子さんは話す。
大洲城のやた櫓の石垣は肱川に面するため、石垣の高さが出るように修理をした。宇吉さんは城の特性を活かして石垣を積む細かな技術とこだわりを持っていた。「当時はウインチで巻いて、石を動かしていました。宇吉じいさんが『強く巻いて』『弱く巻いて』と合図をするのを聞き逃してはいけないので、作業中はよそ見ができませんでした」とカネ子さんは笑う。

◆道やせきをつくり上げる
宇吉さんは城の石垣づくりだけでなく、上林地区の林道づくりにも尽力した。
当時の道路づくりは苦労が絶えない。土だけでは雨で流れ緩くなってしまうため、山の石を細かく砕いて道にした。
「当時は手袋やヘルメットがなく常に危険と隣り合わせ。大きい石が出たら、穴を開け、線を入れて火をつけて石を割る。農作業中の人に火花がかからないように大きな声で合図をしたり、火をつけたりする指揮は宇吉じいさんがとっていました」
時には、重信川にせきをつくったこともあった。「昔は堰堤がなく、大きな川にせきをこしらえていました。せきは洪水によって壊れることが多く、田んぼが崩れていました。宇吉じいさんや朋近さんはそのたびに修理をしていました。じいさんたちの手はいつもアカギレがありましたね」

◆仕事をつくる
「林道をつくっていた当時、近所の人たちが石を砕く役目を担っていました。砕いた石を枡に入れた分だけ、宇吉じいさんや朋近さんが賃金を渡していました。当時は上林に仕事がほとんどなかったので若い人たちもみんな喜んで働いていました」。松山城の石垣修復のときは車がなかったため、城近くに小屋を作ってみんなで寝泊まりをしていた。「あるとき、朋近さんの娘さんが修学旅行で大阪を訪れたとき、大阪城で宇吉じいさんたちが石を積んでいたところを見たそうです。子どもたちにとっても憧れの存在でした」
「仕事に厳しかったですが、仕事終わりにいちご水を買ってくれたことは今でも忘れられません」とカネ子さんは笑みを浮かべた。

◆宇吉さんの末娘 髙原 カネ子(たかはらかねこ)さん
子どもの頃はよく手伝いをしていました。林道づくりをしているときはよくお弁当を持って行っていました。大人になって家を出た後も、松山の三津浜の現場まで差し入れを持って行ったこともありました。当時の林道づくりの作業は、現在のように道具が揃っていないのでとても時間がかかりました。人手もたくさん必要だったので、上林のみんなで作業していました。

◆ファミリーヒストリーを新聞に
大塚 早紀(おおつかさき)さん 衣織(いおり)さん
3年間かけて作った私のファミリーヒストリー。昔から「すごい先祖の人がいる」と聞いていましたが調べてみると、より素晴らしさを感じました。松山城で宇吉さんの名前が石垣に刻まれているのを自分の目で見たときは心を揺さぶられました。実際に石垣を見に行ったり調べたりするうちにもっと興味が出てきたので、これからも調べ続けたいです。

◆宇吉さんの子孫で上林在住 菅能 英樹 (かんのうひでき)さん
宇吉さんの生涯を辿っていくうちに、これだけの功績を残した素晴らしさを感じます。
上林の子どもたちも先生もみんな宇吉さんのことをたくさん調べて、誇りに思っていることが何より嬉しいです。孫や子どもたちにも伝わり、おじいさんの活躍を誇りに思っています。家族みんなで感謝しています。

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