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刈谷生まれの雪の殿さま 土井 利位(としつら)(1)

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愛知県刈谷市

今から約200年前に、刈谷で生まれた1人の殿様が空から降る雪に興味を示し、「雪華図説(せっかずせつ)」という本を出版しました。
その本に描かれた雪の結晶が浮世絵などのデザインに使われ、人々を魅了していきました。
政治家としての手腕をみせつつ、研究者としての一面もあった殿様、土井利位を紹介します。

■1 本家の養子となり、幕府の出世コースに乗る
土井利位は寛政元年(1789)、刈谷藩主土井利徳(としなり)の四男として生まれました。利徳は「嘯月集(しょうげつしゅう)」という和歌の本を出すなど、歴代の刈谷藩主の中でも有数の文化人です。当時は長男が跡を継ぐ時代であったため、利位は文化10年(1813)に養子に出されました。養子先は下総国古河藩(現在の茨城県古河市)の土井家で、刈谷藩にとって本家にあたる家です。このことが、利位の人生を動かす転機となりました。
古河藩土井家は8万石と刈谷藩よりも石高は倍以上の家で、当時の幕府の最高職である老中を務めることのできる家柄でした。文政5年(1822)に養父・利厚(としあつ)の死により34歳で家督を継ぐと、翌年には幕府から奏者番に任命されました。文政8年に寺社奉行、天保5年(1834)には大坂城代に任じられ、出世街道を歩んでいきます。

■2 雪に魅せられて
利位は刈谷でも雪を見たことはあったはずですが、雪に魅せられるようになったのは、古河藩に養子に入った後と言われています。利厚の時代から長く家老を務めた鷹見泉石(たかみせんせき)が西洋の学問に興味を持ち、多くの学者と交流していたことで、利位の科学的素養が培われました。その後、泉石の勧めもあり、雪の結晶の観察を始めます。当時、雪の結晶の研究は日本では行われておらず、オランダから輸入した書物を見て、顕微鏡を入手することから始めました。
冷凍庫などはなく、雪が降った時しか研究はできません。また、昼間は太陽光で溶けてしまうため、夜しか観察できません。利位は、夜に雪が降りそうだと聞いたら、服を着こんで外へ出ていたそうです。
天保4年(1833)、日本で初めての雪の研究書である「雪華図説」が刊行されました。殿様が出した本ということで一般への販売はされず、限られた人だけに配られていました。

◆当時描かれた雪の結晶
天保8年(1837)に出版された「北越雪譜」には、「雪華図説」の内容が引用されています。
35種類の雪の結晶が掲載されており、人々の間に雪の結晶が知られることとなりました。
※詳しくは本紙11ページをご覧ください。

▽当時の雪の観察方法
(1)黒い布を外で十分に冷やしておく
(2)布の上に雪を積もらせる
(3)繊鑷(せんせつ)(ピンセット)で黒漆器に取り出す
(4)吐息がかからないように観察する

■3 大塩平八郎の乱を鎮圧
利位は大坂へ移った後も雪の研究を続けていました。そんな中、天保8年(1837)2月19日、大塩平八郎の乱という大事件が発生しました。大坂町奉行の与力を務めたこともある大塩平八郎が貧民救済を訴え、立ち上がった利位は鷹見泉石と共に、乱の鎮圧に全力を挙げます。乱はわずか1日で終わり、大塩親子らは身を隠しました。町奉行が大塩一派の捜索を行いますが、なかなか見つかりません。既に死んでいるのではないかという噂も流れる中、3月27日、泉石の元に通報が入り、泉石が急行すると大塩親子は自害しました。
利位は同年、京都所司代となり、翌年には江戸城西の丸老中となります。江戸に戻った利位は、いよいよ幕府政治の中枢を担うことになります。

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