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刈谷生まれの雪の殿さま 土井 利位(としつら)(2)

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愛知県刈谷市

■4 天保の改革と利位
利位は天保9年に西の丸老中、翌年に本丸老中に昇進しました。天保12年には当時大御所と呼ばれ権力を握っていた11代将軍・徳川家斉が死去し、老中の水野忠邦による天保の改革が始まります。天保の改革は緊縮財政と倹約で有名ですが、利位も初めはこの政策を支持していたようです。
内憂外患(ないゆうがいかん)の時代にあって、利位は外患への対応、具体的には海防掛を命じられます。同僚には同じ老中の真田幸貫(ゆきつら)がおり、その頃に作られたであろう合作の茶碗が遺されています。ロシア船やイギリス船などの来航が続く中、外国船が現れた際の対応として、これまでの異国船打払令を改め、帰国のために必要な物資を支給する薪水給与令を発しています。
天保14年4月には、日光社参という幕府の一大行事が行われました。12代将軍・徳川家慶が徳川家康の祭られている日光東照宮へ将軍就任の報告に行くもので、付き従う大名やその家臣なども含め15万人を超える大行列が組まれました。この時、利位が治める古河城に将軍が宿泊しています。江戸時代に将軍が江戸城を出ることはめったになく、とても名誉なことであり、古河城も改修工事が行われました。
天保の改革はこの間も進められていきます。6月には上知令という、江戸・大坂十里(約40km)四方を藩や旗本から幕府の直轄領にする政策が示されます。これには多くの大名から反対の声が上がり、改革そのものへの批判も強くなっていきます。閏9月に突然、水野忠邦は老中職を取り上げられ、謹慎を命じられます。天保の改革は失敗に終わりました。
この後、利位は老中のトップとなりますが、幕府政治の信頼を失った中での指揮は容易ではありません。また、江戸城が炎上したことにより、再建のための資金集めをする必要が生まれました。しかし、資金はなかなか集まらず、利位も病気を理由にひきこもりがちになります。結局、天保15年10月に老中を辞職し、古河へ帰ることとなりました。
なお、この時の同僚に福山藩主の阿部正弘がいました。正弘は翌年、老中のトップとなり改革を進め、時代は激動の幕末へ突入します。利位はその手腕を発揮することはできませんでしたが、水野忠邦から阿部正弘へと時代のバトンをつなぐ役割を果たしました。

■5 雪の結晶がデザインとなる
「雪華図説」は日本で初めて雪に注目した書物ですが、決して殿様の道楽ではなく、科学的な知見を基に刊行されました。ここに描かれた雪の結晶の多くが実在するものであることからも明らかですが、中谷宇吉郎(なかやうきちろう)という日本を代表する雪の研究者からも高い評価を受けており、後世の雪の研究の参考図書となりました。
利位は幕府の役職にあって忙しい中でも、大坂や京都で雪の結晶の観察を続け、天保11年に「続雪華図説」を刊行しました。「雪華図説」や「続雪華図説」は親しい人に配られたのみで、庶民が手にすることはありませんでした。しかし「北越雪譜」などに引用されることで、雪の結晶の模様(雪華模様)が人々の間に知られていきます。
利位が大炊頭(おおいのかみ)を名乗っていたことから、雪華模様は大炊模様と呼ばれるようになります。大炊模様は、浮世絵中の着物などの模様として使われるようになります。利位も大炊模様をとても気に入っていて、自身が出す手紙に描いたり、原羊遊斎(はらようゆうさい)というお抱えの工芸家に印籠を作らせたりしています。出来上がった工芸品は、他の大名へ贈られました。
利位は嘉永元年(1848)に60歳で亡くなりますが、現代でも大炊模様は生き続けています。

▽雪華模様が使用されているもの
※詳しくは本紙12ページまたはPDF版をご覧ください。

■歴史博物館 令和6年度秋期企画展
刈谷生まれの雪の殿さま 土井 利位

日時:令和6年10月5日(土)~11月17日(日)(予定)
※展示物については、内容が決まり次第、改めてご案内します。

問合せ:歴史博物館
【電話】63-6100

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