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しんしろー家康紀行ー其の十二

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愛知県新城市

■古宮城
篠城主となった奥平信昌(定昌)は、もともと作手を拠点とした国衆でした。国衆とは当主とその一族や家臣などで構成され、自らの数郡規模の所領・領地を支配した有力者のことです。新城では奥平家や菅沼家、設楽家などがあります。当地のこれら国衆は弱小であったため、家の存続を図ろうと武田や徳川などの戦国大名の傘下に入り、城を持つなど独立性も持っていました。

▽奥平家の立場
長篠・設楽原の戦いが行われた天正3年(1575)より、少しさかのぼります。作手は徳川方と武田方の勢力争いの最前線でした。作手を治める奥平家が徳川方につくか、武田方につくか、双方にとって大きな問題でした。奥平家も大いに迷っていたことでしょう。
元亀3年(1572)7月ころ、亀山城を居城とした奥平家は武田方の家臣となります。信玄は奥平九八郎(定昌)が元服する際に烏帽子親(親に変わって烏帽子をかぶせる人)となり、自らの名である「晴信」から「信」の一字を授け、「信昌」と改めさせたとも言われています。これは信玄と信昌が疑似的に親子関係を結ぶという儀式で、奥平家にとっては破格の対応であり、武田家にとって、それほど奥平家は重要な家であったということです。しかし、その一方で武田方は奥平家を全面的に信用していたわけではありませんでした。

▽作手の古城群
武田方は亀山城の向かいの山に塞之神城、文殊山城を築き、亀山城を監視していたともいわれています。中でもその中核となる古宮城は元亀3年(1572)ころに武田信玄が築城し、その設計は築城の名手といわれた馬場信春と伝えられています。
元亀4年(1573)、信玄が亡くなると、奥平定能と信昌父子は武田方を離れ、徳川方につき、作手を退去して額田・滝山城へ移動します。このとき、武田軍の追撃を受けますが、徳川軍は手薄となった古宮城を攻撃し、焼き払ったと伝えられています。
長篠・設楽原の戦いのあと、武田方の勢力が奥三河から一掃され、武田方の拠点としての性格が失われました。現在、小牧・長久手の戦いの際に、秀吉の攻撃を想定して徳川方によって再整備されたともいわれています。
周囲を低い山で囲まれ、そのほぼ中央部にある宮山と呼ばれる独立した丘に古宮城はあります。そして、その西側を除く三方は湿地に囲まれており、自然の地形に守られた城です。武田方の城郭の中で最高傑作ともいわれる城です。

問い合わせ:設楽原歴史資料館
【電話】22-0673
ID:828893152

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