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碧海郡棚尾村(碧南市棚尾地区)生まれの芸術家 藤井達吉

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愛知県碧南市

小学校で学んだことはあるけれど、詳しいことは知らない。そんな人も多いのでは?3年ぶりにリニューアルオープンした「藤井達吉現代美術館」をもっと知ってほしい、実際に足を運んでほしいという思いから、今一度“藤井達吉”に迫ります。

■藤井達吉
1881年に生まれた藤井達吉は棚尾小学校卒業後、名古屋の七宝店勤務や業務としての渡米を経て20代半ばで上京し、芸術家の道を歩み始めます。明治の殖産興業的な工芸から自律した芸術としての工芸を目指し、多彩な材料と技法を使って美術のジャンルをまたぐ作品を発表しました。それらは当時の工芸界にとって、とても先進的な試みでした。昭和に入ってからは小原和紙や瀬戸の陶芸をはじめ、愛知県や地元・碧南市の工芸復興と後進指導に力を注ぎ、1964年に83歳で生涯を終えました。

■ー工芸ー
達吉が手掛けた工芸作品は、七宝、刺繍、染織、金工、木工、陶芸、漆工、和紙工芸などあらゆる工芸の分野にわたります。左の作品は達吉が新進気鋭の美術工芸家として登場した頃のもので、布や紐だけでなく竹の皮や銅板、七宝など多様な素材と技法を組み合わせて水辺を飛び交う蜻蛉を表現しています。なお、「家庭手芸」という言葉は達吉が初めて提唱したものです。

■ー絵画ー
画面の大部分を占める岩壁の左上に三角形の空があらわれ、月が覗く景色を描いたものです。達吉は創作において一貫して「自然」を見つめ、それを作品に活かしました。左の作品には空の遥か彼方に大きな自然を見る達吉の眼差しが感じられます。達吉はもともと画家を目指していたとも言われるように、大正後半からは本格的に日本画を描き始めました。日本画のほかにも油絵や木版画なども制作しています。

■ーデザインー
達吉は特に工芸における図案の重要性を主張しました。伝統的な文様や図案を無意味に踏襲せず、自然の写生に基づく図案を創造することを重視し、百貨店・白木屋の図案顧問や帝国美術大学(現・武蔵野美術大学)図案科教授として図案改革と指導にあたりました。下の作品は全50枚の木版画による図案のなかの一つです。また、図案集のほかに長田幹彦の小説『霧』など本の装幀デザインなども手掛けています。

■ー著作ー
達吉は大正の半ばから昭和にかけて、作品制作だけでなく展覧会や作品批評もおこない、美術雑誌や新聞で盛んに発表しました。また、家庭でできる工芸の製作方法紹介を雑誌『主婦之友』で連載し、実際に主婦を対象とした手芸の講習会の講師を務めるなど美術工芸の啓蒙普及活動も展開します。右の書籍は『主婦之友』での連載をまとめたもので、ほかにも工芸の理念や技法についての著作があります。

■藤井達吉略年譜
1881年(明治14年) 6月6日碧海郡棚尾村源氏(碧南市源氏町2丁目)に生まれる。
1892年(明治25年)11歳 棚尾小学校卒業。この頃、知多郡大野の木綿問屋尾白株式会社(後の尾白商会)に入る。
1898年(明治31年)17歳 美術学校への進学志望を父に訴えるが許されず、名古屋の服部七宝店に入る。
1903年(明治36年)22歳 第5回内国勧業博に出品するために大阪に行く。帰途奈良に寄って寺を訪ね、はじめて古美術に接する。この頃より絵を描き歌をつくる。
1905年(明治38年)24歳 ルイス・クラーク100周年記念万国博への七宝作品出陳とオークション開催のため渡米。ボストン美術館にて東西の美術作品に接する。
1906年(明治39年)25歳 帰国後、服部七宝店を辞めて上京し、美術工芸作家としての道を歩き始める。
1910年(明治43年)29歳 この頃、郷里から上京した家族と上野桜木町に住む。
1911年(明治44年)30歳 この頃、渋谷宮益坂に住む。吾楽会の会員として招かれる。高村光太郎が運営する琅玕洞に工芸品を出陳。日本近代美術のコレクターとして知られる芝川照吉と出会う。
1912年(明治45/大正1年)31歳 この頃、芝二本榎西町に転居し、洋画家、彫刻家と交わる。フュウザン会ならびに国民美術協会の創立会員となる。
1913年(大正2年)32歳 国民美術協会第1回西部展覧会に屏風作品を出品。
1914年(大正3年)33歳 鶴田吾郎、小川千甕等と伊豆大島へ写生旅行。
1916年(大正5年)35歳 この頃原三溪の娘婿・西郷健雄が達吉作品をコレクションする。
1918年(大正7年)37歳 津田青楓らと官展に工芸部門を新設する運動をする。
1919年(大正8年)38歳 高村豊周らと装飾美術家協会を結成する。
1921年(大正10年)40歳 雑誌『主婦之友』に手芸製作法の執筆を始める。第8回日本美術院展に《山芍薬》を出品し入選、院友に推される。
1923年(大正12年)42歳 『家庭手芸品の製作法』を主婦之友社から出版。関東大震災後白木屋図案部の顧問となり、デザイン革新運動を志すが挫折。
1925年(大正14年)44歳 愛知県出身の美術家たちによるグループ「愛知社」の同人となる。
1929年(昭和4年)48歳 帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)の設立に当たり図案工芸科の教授となる。
1930年(昭和5年)49歳 名古屋市民美術展に工芸部が設置され、審査員となる。
1934年(昭和9年)53歳 小原村訪問。
1935年(昭和10年)54歳 名古屋市立工芸学校にて図案の重要性を説く講演をする。初めて四国遍路に出かける。この年、大井より神奈川県足柄郡真鶴町へ転居。
1937年(昭和12年)56歳 帝国美術学校教授を辞職。
1942年(昭和17年)61歳 照宮成子内親王の御成婚祝賀献納屏風の制作にかかる(翌年完成)。
1945年(昭和20年)64歳 姉・篠、姪・悦子と小原村に疎開。小原村にて終戦を迎える。小原総合芸術研究会を発足。
1948年(昭和23年)67歳 「小原工芸会」を創設。
1950年(昭和25年)69歳 「小原村農村美術館」を建設開館。碧南市新川道場山に転居。
1953年(昭和28年)72歳 愛知県の美術館建設計画を知り、県へ寄贈する自作ならびに所蔵美術品…2千余点(予定)中の第1回分納入。
1955年(昭和30年)74歳 藤井達吉を支援する任意団体愛知県総合芸術研究会が発足。東京芝白金の迎賓館にて個展開催。
1956年(昭和31年)75歳 沼津市に転居。沼津市から岡崎市に転居。
1960年(昭和35年)79歳 神奈川県湯河原町吉浜安江農園住宅に転居。
1962年(昭和37年)81歳 岡崎市戸崎町に転居し、愛知県文化会館美術館と名古屋美術倶楽部にて新作を発表。
1963年(昭和38年)82歳 神奈川県湯河原町由浜に転居。
1964年(昭和39年)83歳 岡崎市へ転居。8月27日心臓マヒにて死去(法名・釈達翁)。

問合せ:藤井達吉現代美術館
【電話】48-6602

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