文字サイズ
自治体の皆さまへ

良寛をたどる。

26/35

新潟県出雲崎町

このコーナーでは、良寛記念館に所蔵されている良寛に関する作品をご紹介します。

亀田鵬斎書『李徳裕 平泉山居戒子孫記』(三)

■原文(後半部分)
為※荒榛首陽微岑尚
有※薇※蕨山陽舊徑唯
干竹木吾乃廃※荊棘驅
狐狸如立鏙班生之
宅漸為應叟之地又
得江南珍木奇石列
於庭際平生素志
於是足矣
庚午冬十一月十六日酔
後汸走筆而書之
半途興書而息
鵬斎老人
太平酔民(印)鵬斎狂叟(印)
※環境依存文字のため、置き換えています。正式表記は本紙をご覧ください。

■意訳
戦戦乱で地方を転々とする内にその土地には、人が住まなくなりました。そのため、榛の木は伸び放題となり、首陽山の翠の嶺には蕨や薇が群生していました。また、山陽県の古道には、竹木が茂ってしまい、人が通れなくなりました。そのように、父の思い出の地は、見る影も無くなってしまったのです。私はその地を美しい庭園にしようと先ず、群生したいばらを刈って狐や狸を追払い、班固(後漢の歴史家)の住居のような家を建てたのです。そして、徐々に應璩(三国時代の魏の文官)の館のように造り変えたのでした。さらに、江南地方の珍木奇石を集め、庭の端に並べたのです。こうして「平泉荘」は完成したのでした。かくて、私はここに父の遺志を完遂し、満足に至ったのである。
庚午《文化七(一八一〇)年》冬の十一月十六日、桂家で酒に酔い、半ば余興で流れ走るように書く。鵬斎老人

■解説
八年間続いた安史の乱により、李徳裕(りとくゆう)の父李吉甫(りきっぽ)が隠居の地として求めた土地は、人が住まなくなり荒れ地となり果てる。『平泉山居戒子孫記』後半部分では、その荒れ果てた土地の再興と、それに至るまでの李徳裕の苦労が詠まれている。李徳裕は、先ずいばらを刈り取り、そこをねぐらとしていた狐や狸を追い払う。そして、簡素であるがよい家を建て、それを徐々に、多くの客人を招いた三国時代の應璩(おうきょ)の家のように改築したとある。さらに、江南地方より収集した珍しい木や石を設置して「平泉荘」は完成する。これにより、李徳裕の一大事業は完遂したのである。
李徳裕が当詩を遺した理由は、自らの死後「平泉荘」が一族以外の者の手に渡ることを恐れたからである。そして、表題の「戒子孫記」の通り、「平泉荘」の保持を一族の戒めとしたのである。また、当詩の外にも李徳裕は「平泉を口くものは住子孫に非らざるなり。その一木一石を人に与ふものは住子弟に非ざるなり。」と言葉を遺している。李徳裕は、有能な宰相であったが、仏教弾圧「会昌の廃仏」や唐王朝が滅んだ原因と云われる「牛李の党争」の先導者として、権力に固執した半生を送る。李徳裕は、その様な権力闘争の半生の中、一族をも信じられなくなってしまったのである。
以前、亀田鵬斎(ぼうさい)が当詩を新津桂家の萬巻楼(まんがんろう)より選んで書写した理由については、よく分からないと述べた。改めて鵬斎の生涯を見ると、鵬斎は権力や財産に執着せず誰からも慕われた人物とある。また、その性格は、良寛に似ていたとも云われる。いわば、権力と財産に固執した李徳裕とは、相容れないのである。鵬斎が当詩を書写の対象として選んだ理由は、李徳裕を反面教師として、そのような生き方はしないと自らの戒めとしたからではないだろうか。
政治家として批判のある李徳裕であるが、日本画家でその半生を庭園造りに費やした橋本関雪(かんせつ)は、李徳裕と「平泉荘」について「自信と執着と無くして成らざるなり」と語り、造園師として高く評価している。
良寛記念館 館長

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU