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特集「すぎなみビト」杉並光友会(原爆被爆者の会) 西尾睦子(1)

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東京都杉並区


■「いい子でね」と頭をなでた父は、原爆で帰らぬ人に
Q:西尾さんは、幼少期を太平洋戦争の最中に過ごされていますね。
A:私の実家は広島市大手町。原爆ドームから1.5kmほどの場所です。私が1歳のときに開戦しましたが、しばらくは戦争の厳しさを実感することはありませんでした。ラジオが繰り返し伝えてくるのは「日本は勝っている」ということ。ちょうちん行列をしたり、出征する兵隊さんに「万歳!」と言いながら幼い私も旗を振った記憶があります。

Q:その後、戦争が身近に迫ってきたと感じたのは?
A:広島市内で空襲が始まってからです。アメリカの爆撃機B29が近づき警戒警報のサイレンが鳴ると、警報が解除されるまでとても怖かった。いつでも逃げられるように服を着たまま寝た日もあります。やがて空襲が激しくなると、火が広がらないようにと「建物疎開」の命令が出て、私の家も取り壊されたので、郊外へ疎開することになりました。父は市内で勤めていたので、市内に残り借家で暮らしていました。

Q:昭和20年8月6日、原爆が投下された当日の状況をお聞かせください。
A:その日は月曜日。快晴の朝でした。4歳の私は鏡台の前に座り、母に髪の毛を切ってもらっていました。すると突然閃光が走って、しばらくして「ドン」と大きな音が鳴り響き、目の前の鏡が飛んだことを覚えています。母は「すぐ隣に爆弾が落ちた」と言って慌てて外へ飛び出していきました。母が出ていってしまったのでぼんやりしていたら、突然大粒の黒い雨が降ってきました。雨がどうして黒いのか不思議でした。後で知りましたが、放射能を含んだちりやほこりだったのです。

Q:原爆が投下されたと分かったときのことは覚えていますか?
A:夕方になると、隣の家のおじいさんは亡くなって大八車(木でできた人力荷車)に乗せられて、おばあさんは顔にひどいやけどを負って、市内から戻ってきました。その様子を見て近所の人たちも何が起きたのか、少しずつ分かっていきました。市内が大変なことになっているようだ、と。明るくておしゃべりだった隣の家のおばあさんが、暗い顔で静かに座り込んでいた姿は今でも忘れられません。

Q:西尾さんの家族はどのような状況にありましたか?
A:前日の8月5日が日曜日だったので、父は祖母を連れて私たちの家に来ており、お昼を一緒に食べました。母がなけなしのお米を炊いたのでしょう。とてもおいしかったことをよく覚えています。父の帰り際、「泊まっていって」と母は父に言ったけれど、やはり仕事があるからと市内に帰っていきました。父は「いい子でね」と私の頭をなでてくれて。帰っていく姿をみんなで見送ったのを覚えています。ですから原爆が投下された後、母は市内にいるはずの父をとても心配して、一人で捜しに出かけていきました。

Q:お母さんはどのような様子で帰宅されたのでしょうか?
A:2日間父を捜し続け、お骨と父を特定する手掛かりとなった懐中時計だけ持って帰ってきました。凄惨(せいさん)な死体でいっぱいの中を捜し回った母は、戻ってくるともう、生きている人のようには見えませんでした。怖くて近寄ることもできませんでした。想像もできないほどの惨状を目の前にすると、人は何が起きているのか分からなくなり、涙も出なくなるのでしょう。その母の姿に大きなショックを受けて、私はその後の半年間の記憶が抜け落ちているんです。ですから、終戦をどう迎えたのか、玉音放送を聞いたことも覚えていません。おそらく自分自身で、自分の心を封じ込めたのだと思います。

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