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【特集】600年の歴史が今ここに̶思いを一つにいざ出漕!(1)

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沖縄県那覇市

那覇の三大祭りの一つである「那覇ハーリー」は、毎年5月3日から5日に行われ、ゴールデンウイークの一大イベントとして多くの観客で賑わいます。
今年4年ぶりとなる「第49回那覇ハーリー」が那覇港新港ふ頭で開催されます。
そこで、今回は那覇ハーリー開催に合わせ、「ハーリーはどのように始まったのか」「船はなぜ龍の形をしているのか」など、那覇ハーリーの由来について紹介します。

■那覇ハーリーの始まり
ハーリー(爬龍船(はりゅうせん)競漕)が沖縄に伝わった経緯については、1390年代頃に、中国から琉球へ移住した久米三十六姓が、自分たちの故郷で行われていた爬龍船競漕を琉球でも始めたという説や、那覇の西村出身の長浜大夫という人物が、中国へ留学した際に見た競漕に感動し、持ち帰ったという説など、諸説あります。
ハーリーは、海の神へ航海の安全や豊漁、地域の安泰を祈願して行われる行事であり、琉球王国時代は国を挙げた国家行事として、現在の那覇港から豊見城城下で行われていました。
しかし、明治時代になると廃藩置県により沖縄県が設置され、琉球王国の国家行事であった那覇のハーリーは廃止となり、泊地域では陸で行う「地(ヂー)バーリー」がその伝統を受け継ぎました。その後、ハーリー復活のため「泊爬龍船保存会」を結成(現在の那覇爬龍船振興会)し、戦後の本土復帰記念事業として開催された沖縄国際海洋博覧会を契機に、約60年ぶりに那覇ハーリーが復活しました。そして、毎年5月のゴールデンウイークに開催される、那覇の三大行事の一つとして定着しました。

■爬龍船の由来
他の地域が漁用のサバニを使って競漕するのとは違い、那覇のハーリーでは龍の姿を模した「爬龍船」を使用します。
昔、楚の国に国王に重用されていた役人がいましたが、彼は周囲の妬みを買い、国を追放された後に河に身を投じ亡くなりました。楚の国の人々は彼の死を悲しみ、霊を弔うために船を出し、竹筒に米を入れた供物を河へ投げ入れ、この供物が蛟龍(水に住む龍)に奪われないようにと、船の形を爬龍(地を這う龍)にしたのが始まりと言われています。
那覇ハーリーは、泊・那覇・久米の3地域対抗で競漕が行われます。
各爬龍船について、泊は黒色で「琉球」を表し、那覇は緑色で「日本」を、久米は黄色で「中国」を表しており、地域ごとに色分けされています。
全長14.5メートル、重さ2.5トンの巨大な船には、漕ぎ手32名、舵取り2名、鐘打ち2名、旗振り3名、唄歌い1名、空手演武を行う中乗り2名の総勢42名がおり、県内で行われるハーリー行事の中でも、最大規模になります。

■御願(うぐゎん)バーリーと本バーリー
那覇ハーリーでは、平和と安泰を願う御願バーリーと競漕を図る本バーリーの二つが行われ、それぞれ漕ぎ方や旗の振り方に違いが見られます。
儀式的な意味合いを持つ御願バーリーでは、櫂(かい)を水面に高く振り上げながらゆっくりと漕ぎ、旗を水平に振ります。また、泊・那覇・久米のそれぞれ地域の持つ「ハーリー歌」を歌うのが特徴です。
一方、競漕を主とする本バーリーでは、櫂は水面深くに入れ、息を合わせた力強い漕ぎに加えて旗は斜めに船底をつくよう勇ましく振ります。
今年はぜひ、歌や演武にも注目しながら、伝統と文化を受け継ぐ「那覇ハーリー」をご覧ください!

■那覇ハーリーの歩み(1392年~1975年)
1392~1405 中国から琉球へハーリーが伝来
1879 廃藩置県により那覇のハーリー競漕を廃止
1905 日露戦争の戦争祝賀行事として古式ハーリーを実施
1915 大正天皇御即位奉祝にて、泊地バーリーを披露
1950 戦後、中断していた泊の地バーリーを開催
1951 龍潭にて琉球大学開校セレモニーとしてのハーリーを開催
1960 港まつりにて地バーリー披露
1972 泊爬龍船保存会を結成
1974 那覇爬龍船3隻を建造、泊敷地内に艇庫を建立
1975 60年ぶりにハーリー復活、第1回那覇ハーリーまつりを開催

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