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金勝寺を開いた僧・良弁僧正 1250年御遠忌によせて(1)

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滋賀県栗東市

金勝寺(こんしょうじ)を開いた僧・良弁僧正(ろうべんそうじょう)1250年御遠忌(ごおんき)によせて

滋賀県の南部に位置した旧栗太郡は、栗東という地名が「栗太郡の東」に由来するように、大津市の瀬田川より東側、草津市と栗東市の全域、そして守山市の一部(物部地区)にまたがる広い地域でした。旧栗太郡一帯は、豊かな宗教文化が花開いた地域として知られ、その中心の一つに本市南部の金勝山(こんぜやま)に建つ金勝寺(荒張)があります。
令和5年(2023)は、金勝寺を開いた僧・良弁(689~773)の没後1250年の記念の年(1250年御遠忌)にあたります。
今回の特集記事では、良弁僧正1250年御遠忌によせて、栗東の仏教文化について紹介します。

■良弁と金勝寺
良弁は、持統天皇3年(689)に相模国(神奈川県)に生まれたと言われています。一方で、近江国(滋賀県)の生まれという説もあり、その出身についてはよく分かっていません。法相学(ほっそうがく)を学んだ良弁は、行基とともに東大寺(奈良市)の大仏造立の際に中心的な役割を担い、大仏開眼供養の後、東大寺初代別当(べっとう)に就いています。最晩年の宝亀4年(773)に僧正に任命されたことから、良弁僧正と呼ばれるのが一般的です。
良弁が金勝寺を開いたのは、天平5年(733)のことです。聖武天皇の勅願(ちょくがん)により、平城京(奈良市)の鬼門(東北)を守る国家鎮護の祈願寺として開かれました。その後、弘仁年間(810~824)に、興福寺(こうふくじ)の僧・願安(がんあん)によって伽藍(がらん)が整備され、仏像が安置されたと伝えられています。金勝寺は、平城京を中心に栄えた南都仏教の影響下で開かれ、整備されていったのです。

■金勝山と湖南アルプス~狛坂磨崖仏(こまさかまがいぶつ)をめぐって~
金勝寺の建つ金勝山とは、本市南部に連なる山々の総称で、金勝山も含めた滋賀県の南部に広がる山並一帯は、湖南アルプスと呼ばれています。花崗岩の岩塊(がんかい)が作り出す独特の景観が広がる湖南アルプスは、琵琶湖まで見渡せる眺望も相まって、人気のハイキングコースとなっています。
歴史を紐解くと、奈良時代の歌集『万葉集』に行き当たります。「藤原宮の役民の作る歌」として「石走る 淡海の国の 衣手(ころもで)の 田上山の 真木さく 桧の嬬手(つまで)を」と、
湖南アルプスの一角を占める田上山(大津市)から、藤原宮(奈良県橿原市)の桧材を切り出したことが歌われているのです。田上山は、持統天皇8年(694)から和銅3年(710)まで置かれた藤原宮の造営や平城京の整備、多くの寺院の建立にも材木を提供したと言われています。このような経緯も、後に金勝寺が南都仏教の影響下で開かれ、整備されていく背景として見逃すことはできないでしょう。湖南アルプスには、多くの石仏も点在しています。その中で最も有名なものが狛坂磨崖仏(国史跡)です。高さ6.3m・幅4.5mの花崗岩に、足を崩して座る像高2.2mの如来像を中心に、像高2.4mの両脇侍(菩薩立像)が表され、ひと際大きな3体を取り巻くように、小ぶりの仏像9体が浅く彫られています。狛坂磨崖仏は、願安によって弘仁7年(816)に創建されたという狛坂寺の跡地にありますが、それ以前に彫られたと考えられています。奈良時代後期に、新羅系渡来人が彫ったとの説が有力で、さらに古い白鳳時代に彫られたとの見方もありますが、江戸時代後期に至るまで史料に登場することはなく、多くの謎と魅力に満ちた存在です。平成2年(1990)に開館した栗東歴史民俗博物館では、栗東の歴史と文化を象徴するシンボルとして、狛坂磨崖仏のレプリカ(等身大)を展示しています。

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