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金勝寺を開いた僧・良弁僧正 1250年御遠忌によせて(2)

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滋賀県栗東市

■旧山口寺と大通寺
南都仏教の影響下で開かれた金勝寺ですが、金勝山の北麓が開発されるにつれ、北麓の集落との関わりを強めていくようになり、金勝寺を中心とした仏教文化が花開いていきました。その中から、旧山口寺(きゅうさんこうじ)と大通寺(だいつうじ)を紹介します。
山口寺は、金勝寺に登っていく山道の出発点、荒張の目相(めそう)と呼ばれる地区にありました。平成4年(1992)、山口寺の廃寺にともなう調査で、須弥壇(しゅみだん)の下から天部形立像(てんぶぎょうりゅうぞう)の部材が多数発見されました。それらを組み合わせたところ、多くの部材が損なわれていた四天王立像(2躯)の復元が可能となったほか、それまで知られていなかった天部形立像1躯分として組み上げることができました。これらの像は、平成10年(1998)には滋賀県指定有形文化財として指定されています。
金勝寺に登っていく山道の登り口付近に位置する荒張の走井(はしり)という集落には、数軒の家が大通寺保存会として守る仏像(広目天立像(こうもくてんりゅうぞう))が伝わっています。この広目天立像も滋賀県指定有形文化財に指定されていますが、もともとは四天王(または二天)のうちの1躯であったと考えられます。
大通寺の広目天立像は、栗東歴史民俗博物館の開館以来、寄託資料として収蔵され、大通寺保存会の皆さんは、毎年、お参りに来られています。学芸員をはじめとする職員にも、普段収蔵資料としている仏像が、信仰の対象として生きていることを実感できる貴重な機会となっています。

■安土の金勝山浄厳院
時代が下がり室町時代、栗太郡河辺(川辺)出身の僧・隆堯(りゅうぎょう)(1369~1449)は、金勝寺に草庵(浄厳坊(じょうごんぼう))を構えた後、東坂にも草庵を開きました。現在の阿弥陀寺です。東坂の草庵を開く際、隆堯は阿弥陀立像を本尊としました。この像は、隆堯が伊勢神宮で修行した際に、天照大神から授かったとされ、近江への帰途に光明を放つ奇瑞を見せたことも相まって、「天照仏(てんしょうぶつ)」と呼ばれています。その後の阿弥陀寺は、近江の浄土教団の中心的な役割を担っていくようになります。
戦国時代も終わりに近付いたある日、金勝山が歴史の転換点に大きく関わる出来事が起こります。織田信長(1534~1582)が、金勝山で鷹狩りを楽しんだ際に、阿弥陀寺第8世・応誉明感(おうよみょうかん)(?~1582)と出会ったのです。その人柄を高く評価した織田信長の命令により、天正6年(1578)、応誉明感は安土へと移り、近江の浄土教団の中心としての阿弥陀寺の役割も、安土の浄厳院へと移っていくこととなります。浄厳院の名が、隆堯が金勝寺に構えた草庵・浄厳坊に由来することは言うまでもありません。さらに、その山号は「金勝山(きんしょうざん)」と言い、金勝山・金勝寺とのゆかりを今に伝えています。

栗東歴史民俗博物館では、良弁僧正1250年御遠忌を記念して、収蔵品展「栗東の神・仏」(9/16~11/26)を開催します。詳細はお知らせ版8ページをご覧ください。

問合せ:栗東歴史民俗博物館
【電話】554-2733【FAX】554-2755

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