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韓国から甲良町へ、取材に来られました!

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滋賀県甲良町

去る令和5年6月19日(月)、韓国インターネット新聞社TNEWSの記者が、町内在住の辻幸男氏とともに、日韓交流のため甲良町を訪問されました。
以下の内容については、同行された町内在住の辻幸男さんに作成していただきました。
甲良町は、三国時代(高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ))の高句麗からの移民の入植地が由来ではないかと言われています。今回の訪問では、野瀬町長、国宝西明寺、甲良豊後守宗廣(こうらぶんごのかみむねひろ)記念館、藤堂高虎ふるさと館「和の家」を訪ねました。そこで、甲良町の歴史に詳しい野瀬町長を訪ねてお話をお聞きし、更に西明寺及び甲良豊後守宗廣記念館を訪ねて、最後に藤堂高虎ふるさと館にて昼食という計画を立てました。まず、野瀬町長との対談では、韓国の歴史教科書の1ページから始まりました。

(翻訳文)文化の伝播
三国(高句麗、百済、新羅)は、互いに対立し競争する中にあっても活発に文化を交流した。中国とも交流しながら、独自的な美術を発展される一方、海を渡って日本に文化を伝え彼らの文化の礎を造りもした。百済からは、阿自岐(あじき)と王仁博士(わにはくし)が日本に渡り儒学を教え、段楊爾(だんように)・高安茂(こうあんも)等も渡って学問を教えた。聖明王(せいめいおう)の時には、仏教を伝え(ページ終了)…。

私たちの住む甲良町の西隣にある豊郷町は、韓国の中学歴史教科書に出てくる阿自岐(あじき)氏が暮らした町で、南隣には依智秦(えちはた)氏が暮らした旧秦荘町があります。そして、湖東三山西明寺、金剛輪寺、百済寺の寺院が並んでいます。
滋賀県は、南部には新羅系の遺跡が多くあり、北部には百済系の遺跡が多いので、私は甲良町も当然百済からの渡来人(とらいじん)が入植し、墾田開発(こんでんかいはつ)した地域であると考えていました。
ところが、韓国の教科書の地図を詳細に見ると、高句麗からの渡来人は敦賀に到着しており、琵琶湖を経由して奈良に向かったようです。
高句麗からの渡来人は、みんな関東地方に移動して、高麗若光(こまのじゃっこう)という役人を中心に、埼玉県の旧高麗郡(きゅうこまぐん)(現在の埼玉県日高市)に集まって暮らしていたと書物にはありましたが、太平洋岸を静岡、神奈川まで行き、そこから内陸部に入って行くのは大変だったことと推察できます。
ところが、写真の教科書(地図)を見ると、敦賀に来たという記載があります。それなら、敦賀から近い甲良町は、高句麗から来た渡来人が開墾した地域なのではなないでしょうか?
百済寺は、百済からの渡来人のために、高句麗の僧侶が建てたお寺だと聞いたことがあります。
また、国宝西明寺の本堂は、高麗尺(こまじゃく)という尺度で建てられていると中野住職から伺いました。高麗尺(こまじゃく)とは高句麗の尺度で、1間の長さが通常の1.2倍、大宝律令(たいほうりつりょう)以前の時代に使われていたのだそうです。
後の時代に活躍した「甲良大工(こうらだいく)」は、高句麗からの技術系集団のDNAをそのまま伝承しつつ、後世にまで残る立派な文化財を多数輩出してきた素晴らしい私たちの先祖であることを誇りに思います。
私は、今回の訪問を通じて日本と韓国との交流の一助になればと思います。

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