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第107回 温故知新~うと学だより~

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熊本県宇土市

■宇土半島基部地域の勢力とヤマト王権(前編)

▼熊本の古墳時代は宇土から始まった
3世紀中頃から約350年間続いた古墳時代。日本列島に20万基以上という膨大な数の古墳(前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳等)が築かれましたが、なかでも全体の2~3%にすぎない前方後円墳は、各地の有力豪族が採用した墳形でした。そのあり方は当時の政治・社会情勢を反映しており、古墳時代を「前方後円墳の時代」と呼ぶ研究者もいます。
熊本県域では、古墳時代の初め頃、宇土半島基部(現在の市東部地域)に県内最古の前方後円墳・城ノ越(じょうのこし)古墳(栗崎町)が3世紀後半に出現し、その後も前方後円墳の築造が相次ぎました。まさに「熊本の古墳時代は宇土から始まった」といえますが、なぜ古い時期の前方後円墳が宇土に集中するのでしょうか。

▼ヤマト王権と前方後円墳
2世紀後半(弥生時代後期)、列島の国々は自らの領域や物資の流通権等をめぐって激しい争いを続けていました。そこに登場したのが邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)でした。2世紀末頃、周辺地域から共立された卑弥呼は、中国に使いを送り、その権威をバックに戦乱の世を鎮めました。この政治連合が「ヤマト王権」で、卑弥呼は本王権の初代大王(だいおう)と考えられています。
『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には、卑弥呼の死後に大きな墓が築かれたと記されており、ヤマト王権の本拠地である奈良盆地東南部に3世紀中頃に築かれた箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)がその墓とする説が有力です。考古学界ではこの巨大前方後円墳(墳長280m、高さ26m)の出現をもって古墳時代の開始と考える研究者が多く、同じ頃に西日本各地に箸墓より規模が小さな前方後円墳が出現しました。これらと箸墓の規模を比較すると、浦間茶臼山(うらまちゃうすやま)古墳(岡山市)は墳長138mで箸墓の約1/2、石塚山(いしづかやま)古墳(福岡県苅田町)は墳長120mで同じく約2/5の相似形です。この現象は、列島各地の権力者が前方後円墳をシンボルとし、ヤマト王権と密接な関係を結んだことにほかならず、権力者間の力関係は墳丘規模の差で示されていたと考えられています。

▼なぜヤマト王権は宇土を重視したのか
城ノ越古墳(墳長43m)は、昭和41年(1966)にミカン園開墾作業中に発見され、宇土高校社会部による応急的な調査後、残念ながら消滅しました。埋葬施設の近くから発見された中国製三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)(市指定文化財)は、卑弥呼が魏から授かった鏡との説があり、ヤマト王権はこのような貴重な文物を各地の権力者へ配布することで、自らの中心的立場を確固たるものとしました。
城ノ越以降、約100年間にわたり宇土半島基部地域に前方後円墳が次々に築造されました。本地域が九州西部における政治的中心地として大きな役割を果たしたとみられます。では、なぜヤマト王権は宇土との関係を重視したのでしょうか。宇土半島基部地域は、熊本平野と八代平野を結ぶルート上にあり、有明海と八代海の境界域でもあります。ヤマト王権が九州西部における陸上・海上交通の要衝であった本地域の権力者との関係を重視した結果、多くの前方後円墳の築造につながったと考えられています。

※次号(後編)では、向野田古墳(松山町)をはじめとする宇土半島基部の前方後円墳と西岡台遺跡(神馬町)で発見された豪族居館を紹介します。

参考文献:
・『新宇土市史』(資料編第二巻)
・『新宇土市史』(通史編第一巻)

問い合わせ:文化課 文化係
【電話】23-0156

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