前回は明治39年9月に出された願書を紹介しました。
下町橋の設計を木橋から石橋に変更することと、村へ用材の下付を願う内容であった願書の提出から約1カ月後の10月29日、再び地元総代として椎葉三蔵・兼田喜太郎から願書が出されています。
■費用の不足
再び出された願書の内容は「眼鏡橋に設計変更し、工事は七分通り以上進行しているが、費用が予想外に不足し、地元の戸数では到底負担できないので、金150円を村から補助してほしい」というもの。
願書には「下町橋目鏡形架設費用収支予算書」が添えられていました。予算書を見ると、総工費は552円40銭で、うち221円余りを村から払い下げを受けた杉・桧・焼松の売却代、181円余りを地元からの出役(しゅつやく)や寄付金で賄う計画となっています。
しかしながら村議会では、補助しないという決定となったようです。
■収支予算書を読む
収支予算書の内容を表にまとめてみました(↓)。『湯前町史』の年表には、明治39年11月20日のこととして「下町橋架替。初めてセメントを使用。眼鏡橋となる。工費二百七十円」と記載してあります。おそらく、収支予算書をもとに記述したものと思われます。
『町史』では工費270円とありますが、予算書では「元契約分」とあるので、実際の総工費としては予算書の合計552円40銭に近い金額がかかったものと思われます。
ほかにも、予算書の支払いの部には「手摺(てすり)ニ使用スルセメント購入代」として、1円50銭の記述があります。「手摺」は高欄(こうらん)(欄干(らんかん))のことと思われます。現在進めている修繕工事では、失われていた高欄も石造で復元されます。当初の姿に戻る下町橋の完成が心待ちにされます。
教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)
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