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《シリーズ》菊池一族の遺産

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熊本県菊池市

■歴代菊池の当主たち
□20代 為邦(ためくに)
19代持朝(もちとも)の嫡子で、父の死去により家督を相続し、持朝に続き筑後守護となり、大友氏との領有権争いを繰り広げました。寛正3(1462)年、8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)は、それまで為邦が持っていた筑後守護職のうちの半分を大友政親(おおともまさちか)に与えます。これは肥後における為邦の弱体化を感じ取った、幕府の思惑が働いたものと思われています。
3年後の寛正6(1465)年、為邦は失った筑後の所領奪還のため、高良山に兵をあげ大友親繁(ちかしげ)と戦いましたが敗れてしまいます。この戦いでは、弟の為安(ためやす)が討ち死にし、残る筑後地方の半分も大友氏の手に渡ってしまいました。
このような武力の低下は内紛を招く原因となり、次男の武邦(たけくに)が豊福(熊本市南区城南町)で反乱を起こしました。この反乱は嫡子重朝(しげとも)により鎮圧されますが、この頃から一族衰退の兆しが見え始めることとなります。この後、文正元(1466)年に為邦は家督を重朝に譲り隠居しました。
戦いに身を置く日々の一方、為邦は学問に力を尽くしています。家督を譲った後は、菊池十八外城の一つである亀尾城下に隠棲し、日夜、仏教書『碧巌集(へきがんしゅう)』の研究に励みました。さらに剃髪して仏門に入り、如拙伯巧(じょせつはくこう)和尚を迎え、居館を神龍山碧巌寺(しんりゅうざんへきがんじ)としました(関連25ページ)。
為邦の学問が、いかに深く秀でていたかを推察できるエピソードがあります。京都・東福寺で五山の俊秀との誉れ高い恵え鳳ほうという僧が、為邦の文章を見て「文章の規範である」と激賞したというのです。とても残念なことですが、為邦の文章そのものは現存していません。
為邦は長享2(1488)年に59歳で亡くなりました。墓所は為邦が開いた江月山玉祥寺(玉祥寺)にあります。碧巌寺(前川)には、没後250年を機に遺髪塔(分墓)が建てられました。

問い合わせ先:菊池プロモーション室
【電話】0968-25-7267

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