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[特集]関東大震災、その時。(3)

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神奈川県平塚市

◆関東大震災で変わった暮らし
・民俗学担当 浜野達也館長

◇かやはトタンにいろりは火鉢に
震災で多くの家屋が倒壊した一因に、屋根の重さが挙げられます。震災後は重いかやぶき屋根や瓦屋根から、軽いトタン屋根に変える家が増えていきました。
農村部では、震災前は集落で共同のかや場を持ち、集落内のかやぶき屋根を順番にふき替えていました。かや場を持たない集落では、かやを買う費用を皆で工面する「かや講」という仕組みが取られていました。トタン屋根に切り替える家が増えるとかや講の維持が困難になり、多くの集落で震災後にかや講が解散しました。同時期に「むいから(麦殻)」と言い、収穫後の小麦のわらを数年貯め、かやの代わりに使う家が増えました。むいから屋根は耐久性が低いものの、かやぶき屋根より軽く、素材を自給できるのが利点でした。
当時は家の中にいろりがあり、炊事をしたり暖をとったりするのに使われていました。かやは天然の素材なので、虫などがすみつきます。虫はかやを食べる厄介者でした。いろりから出る煙は虫を追い払ってくれますし、屋根と、柱や梁などの建材を乾燥させてくれます。いろりは屋根や建物の維持に必要なものだったんです。
震災後、いろりから火鉢に切り替える家が徐々に増えていきました。まきを燃やすため火が上がるいろりより、炭を使い火が上がらない火鉢の方が、火災への安全性が比較的高いためと見られます。トタン屋根で虫を燻いぶして追い払う必要がなくなったことや、かやぶき屋根より煙を逃しにくい構造的な理由も、火鉢の普及に影響したようです。

◆震災後に水質が悪化した家も
震災後、井戸の出が悪くなったり、酸化鉄の混じった赤い「かなっ気のある水」が出るようになったりしました。地震で地下水脈の位置がずれたためだと考えられます。鉄分を多く含んだ赤い水は、そのまま飲料水として使うのが難しくなりました。
平塚市内の平野部は、5~10メートルも掘れば水が湧き出てくる土地でした。震災後は水の出や水質が悪くなったため、より深い水脈から水を取ろうと、「掘り抜き井戸」という40~50メートルほど地下に掘る深い井戸を造る家が出てきました。
掘り抜き井戸の水は水質が良くおいしいことや、水温が一年中安定していることなどが特徴です。造るのに費用がかさむので、造れる家はそうありませんでした。水質が悪化した家の多くは、掘り抜き井戸を造った家から水を分けてもらったり浅井戸から出る赤い水を石や炭でろ過したりして、飲用にしていました。

◆復興需要で砂利採取が盛況
(本紙)1面上の震災当時の写真を見ると、手前に広がる河川敷の左上から右斜め下にかけて、細いレールと、宮代という文字の入ったトロッコが見てとれます。これは、相模川で採取した砂利を平塚駅の貨車まで運搬するためのレールとトロッコです。相模川では、大正時代初期から砂利が採取されていました。大正10年に茅ケ崎-寒川間で開業した相模線は、元々は相模川で採取した砂利を運ぶための路線だったんですよ。
震災前はじょれんという道具で手掘りしていた採取作業が、震災後は機械に変わっていきます。相模川でも機械船での砂利採取が盛んになりました。復興のため東京や横浜で鉄筋コンクリートの建物が増え、骨材として砂利の需要が急増したのです。
砂利採取は、高度経済成長期の頃まで続きました。しかし、相模川では橋の基礎が露出するほど乱掘され、河床も大幅に下がってしまいました。東京オリンピックを控えた昭和39年、砂利の採取は全面的に禁止されました。

9月第1金曜日号では、市の地震対策を特集します。

問い合わせ:博物館
【電話】33-5111

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